今だから話せる本当にあった話【第2弾】
これは2006年6月5日(月)にテニアン島での出来事である。
この年から「テニアン・ターコイズブルー・トライアスロン&リーフスイム大会」の開催日を2月から6月へ変更した。それは6月が海コンディ ションのベストシーズンだからである。南の島ではイベントは土曜日に行うのが好まれるので、我々もそれに習って第2週の土曜日(10日)に 設定した。
しかし、KFCはどこの島の大会でも準備のため1週間前の日曜日に現地入りするのをずっと以前から習わしとしている。そして、 島に入ると、まず、どこの島でもその島の「今」をこの目で把握するためにレンタカーで島中を見て回るのをルーティン(お決まりの)ワークと している。
テニアン島南端にあるサンホセ村から北へまっすぐに島を貫いて走っている幹線道路「ブロードウェイ通り」を北上し、広大なハゴイ空軍基地 跡地へ向かった。
この基地内には、太平洋戦争末期(1945年)に広島と長崎に向けて、原子爆弾を搭載したB29爆撃機「エノラゲイ」と「ボックスカー」が飛び 立った全長2kmの滑走路が4本(この内2本はかなり植物に浸食されている)残っている。他にも、原子爆弾をそれぞれの爆撃機に積み込んだ原爆搭載地跡(アトミック・ボム・ピット)もある。 さらに米軍の集中砲火で破壊された旧日本海軍司令部建物や発電所や防空壕なども当時のまま残っている。
だだっ広い滑走路跡を走り抜けて原爆搭載地跡広場の入口に着いた時のことである。何と、そこにはいつもと違って米軍の戦闘ヘリが着陸して いるではないか。
瞬間、異様な光景、徒ならぬ空気を感じた。これ以上近づいたらまずいと感じた。今、彼らがやっている何かを見たらまずいとも感 じた。頭の中で危険信号が点滅していた。ヘリから離れた搭載地跡広場入口付近に車を停止させ、その中へ入るのを躊躇した。
ここは過去幾度なく訪れたが、こんな場面に出くわしたのは初めてだ。驚いた。ヘリの胴体部分のドアが広く開け放たれており、一人の兵士が機体後方 へ向かって何かを大声で叫んでいる。ヘリの後方、ジャングルで死角になっている辺りに同僚兵士が降りて何かをしているようだ。
その叫んでいる兵士の慌て様は尋常ではない。私(大西)が彼らを見て驚いた以上に、彼らの方が驚いている。無理もない、こんな人里から遠く離れた 寂しい所へ人がやって来ることは滅多にないからだ。しかも、ここは彼ら米軍の管理地なのである。人は来ないものとして何かをやっていたのだろう。
突然、ヘリのローターが回転を始めた。機外に出ていた兵士が戻り飛び乗った、と同時に機体は空中に浮かんだ。その瞬間に傍にあったカメラのシャ ッターを切った。これを写したらまずいかな、と思いながらもシャッターを切った。胴体にはロケット砲がハッキリと見える。兵士の表情まで読み取れ るくらいだ。あっと言う間に飛び去ってしまった。
一刻も早くこの場を離れた方がよいと感じたので、予定変更し、原爆搭載地跡広場へは入らず、そのままそこを離れ、来た道とは反対のチェル・ビー チ方面からサンホセ村(ホテルのある村)へ帰ることにした。
ところが、2〜3分後、滑走路を横切り、ハゴイ空軍基地跡地を出た辺りで、突然、正面に先ほどの戦闘ヘリが出現したのである。上空から降下して きたのと違って、ジャングルの樹木の間から音もなくドーンと湧き上がってきたような現れ方だった。フロントガラス一面がヘリの機体に覆われた感じが した。姿を現わしてからは、もの凄い爆音だ。
まるで、映画を観ているようだ。一瞬、シルベスタ・スタローンの映画「ランボー」のワンシーンとダブった。 自分の人生でこんな状況に遭遇するなんて、何て不幸な・・・ある。
「まずい、殺られる!」と感じた。こんな人気のないジャングルの中で、しかも米軍の管理下にあるエリアで、米軍が東洋人(彼らには日本人と韓国人と 中国人の区別はできない)を殺ったところで、何の罪にも問われない。ニュースにもならない。闇に葬られるのが世界の現実なのだ。
こんなケースでは国家による保護も、警察も、法も何もあったものでない。海外では自分の身は自分で守るのが鉄則だ。
突然、戦闘ヘリが正面に湧き上がってきたものだから、前へは進めない。瞬時、車をUターンさせ、来た道を、すなわち、ハゴイ空軍基地跡地を目指した。 ポンコツのレンタカー・トヨタカローラではどうあがいても戦闘ヘリから逃れることなど不可能だ。それでもこのケースでは逃げるより手はない。とに かく「逃げろ!」である。
アクセル全開で走った。ジャングルの中の細い道をアクセル全開、フェイントをかけ、カウンターを当て、リヤをドリフトさせながら走った。的を絞ら せないためにも運転は派手な方がいいと漠然と感じていた。サスが柔いので踏ん張りが利かない。ハンドルの遊びが大きいので曲がらない。それにしても FF(前輪駆動)は速く走れない。昔取った杵柄、ラリーの運転テクニックをすべて駆使して走ったという感じだ。
ハゴイ空軍基地跡地内にある旧日本海軍令部跡の建物を目指すことにした。敗戦時、無数の砲弾を撃ち込まれてはいるが、造りは頑丈なので、逃げ込む ことができれば何とかなると考えた。ヘリは、まるでもてあそんでいるかのように後方低空にピタッとついてきている。ロケット砲を1発撃たれたらオシ マイの状況にある。
旧日本軍司令部跡の建物への途中、広大な滑走路跡地に進入した。その時、1kmほど向こうから観光客が乗ったダイナスティ・ホテルの島内観 光バスが砂煙を上げてこちらに向かって近づいて来るのが見えた。この頃、テニアンは中国上海からの団体客が頻繁に訪れており、よくバスで島内観光を していた。
ラッキー!助かった!そのバスを目指して全開で走らせ、Uターンさせ、バスの横をピタッと並走して走らせた。
幾ら、天下御免の米軍と云えども、大勢の民間人が乗った観光バスまでは攻撃することはできない。この後、すぐにヘリは立ち去って見えなくなった。 グアムのアンダーソン空軍基地へ帰っていったのだろう。この間わずか、2〜3分の出来事だった。が、非常に長く感じられた。
後になって思えば、米軍戦闘ヘリが本気になればカローラを破壊することなど、数秒もあれば事が足りる。それをしなかったのは、警告だったのだ ろうか、それとも、もてあそばれたのだろうか、真意の程はわからない。それにしても、気持ちのいいものではない。
1日間をおいて、翌々日、彼らが原爆搭載地跡で何をしていたのかをチェックしに行った。しかし、何も見つけることはできなかった。
因みに、このハゴイ空軍基地を含むテニアン島の北部3分の2の面積は、戦後ずっと米軍の管理下にある。ここでは、未だ太平洋戦争は完全に 終わっていないのである。
毎年、夏になると、日本の報道機関は皆揃って原爆を投下された側のことばかりを報道している。しかし、広島と長崎へ向けて原爆が運ばれてきた地の 様子も報道すべきである。どこから、どのようにしてB29爆撃機が飛んできたのか知らない人は多い。
ここテニアン(ハゴイ空軍基地跡)は終戦当時のまま時が止まっており、ここを訪れる度に、考えさせられることが多い。貴重な戦争資料館である。 修学旅行にはこういう場所を訪れ、学生たちには戦争の悲惨さや平和の尊さなどを感じとってもらいたいものだ。
世界最強の米軍相手では、アブ事件の時のように落とし前を付けることは不可能だ。それにしても、一民間人が、それも日本人が、米軍戦闘ヘリに追尾されること など、万が一にもあり得ないことだ。こんな不幸に遭遇した日本人は他にはいないだろう。
人生、何が起こるか分からない。一寸先は闇とはよく言ったものだ。
2009/8/19 KFC記