(東京ヒルクライムシリーズ誕生秘話)
”ツール・ド・フランス”と云う世界最大の自転車レースを愛して止まない我々KFCにとって、東京都だけに、 誰もが参加できる自転車レースが存在しないことに、以前からどうしても納得のいかないものがありました。
この現状に風穴を開けたいと云う強い気持ちが、一般道(都道)を使った初の自転車レース「東京ヒルクライムOKUTAMAステージ」の 開催につながりました。
そして、今では、自転車レース皆無と云う超後進国だった東京都に、誰もが参加できる東京ヒルクライムシリーズ全4戦というレースが 誕生したという次第です。
また、以前から、“どうしてトライアスロンクラブが自転車レースを開催するの?”と参加者に尋ねられることが時々ありました。 不思議に思われて、当然と思います。それは東京都で、どの団体も、自転車レースを立ち上げようとしないからです。現に、 自転車レースは1本もありませんでした。
だから、我々KFCが やっているだけのことです。もし、それを別の団体がやっていれば、我々はやっていなかったと思います。
かつて、2004年から2006年までの3年間、青梅市成木にある“なちゃぎり林道”と云う行き止りの地道を使って、マウンテンバイクの ヒルクライムレースを開催していました。
この林道は成木7丁目の「成木の家」がある地点から高水山へ続く急こう配の林道で、 距離は約5kmです。あまりにもマニアック過ぎて参加人数は毎年50人くらい、村興し効果や経済効果は全く期待できませんでした。
そんな状況下で出たアイデアが成木市民センターから黒山山頂下まで、都道の成木街道(5q)と常盤林道(5q)とを使った 総延長10qのロードバイクによるヒルクライムレースです。
常盤林道というのは成木の家から黒山山頂下へ続く舗装路で、 1車線の行き止まりの林道です。通り抜けできないので、人や車の往来はほとんどありませんでした。それに対し、成木街道は2車線の 都道で、車の往来はもちろん、休日ともなれば自転車乗りが大勢行き交う関東圏ではよく知られたサイクリングコースです。
サイクリングとは違い、レースとなると通行止めが必要となり、青梅警察や東京都など各関係機関の許可が必要となります。 そのなかでも、特に警察の道路使用許可が最優先事項です。そこで、青梅市自治会連合会第7支会長、成木7丁目自治会長、 青梅市役所職員、それに大西の4者で青梅警察へ幾度となく出向いて、道路使用に関しての話し合いを持ちました。
その結果、 常磐林道に関しては、一般道ではないと云うことで、何とか道路使用許可をもらうことができました。しかし、 都道である成木街道5km部分に関しては 、承諾してもらえませんでした。林道部分に比べて、都道の部分は、その壁が 余りにも大きいと痛感しました。
仕方なく、2007年8月19日に常盤林道だけを使い「第1回東京ヒルクライムNARIKIステージ」と云う名称で ロードバイクによる ヒルクライムレースを開催しました。
しかし、林道での大会では、満足できません。あくまで陽の当たらない大会で市民権を得た大会とは 言えません。やはり一般道(成木街道)を使ったレースでないと将来の発展は望めません。
この時、タイトルを「NARIKIステージ」と命名したのは、近い将来、東京都にこの大会に続く大会が出てくると感じたからです。 何の根拠もない大西の直感です。その時には“NARIKI”の部分さえ変更すれば、姉妹レースとしてシリーズ化でき、より存在感を増すことができると 考えたからです。 この時点では、他のレース開催など全く可能性のないことでした。
そして、翌2008年にも再度、地元成木地区の代表者、青梅市役所の職員、それに大西の3者で、できる限りの説得資料を持って、 青梅警察へ成木街道を使わせてもらえるようにお願いに出向きました。しかし、この時も壁の大きさを再度痛感しただけで終わりました。
前例のないところから何かを作り上げるのは本当に難しいと云うことを改めて痛感しました。
青梅警察には、この間も継続して我々の実施している他の大会の運営方法を説明したり、実際に見てもらったりしました。その後も 諦めず、 事あるごとに成木街道の使用をお願いし続けました。さらに地元の人たちの熱意も並々ならぬものがありました。
そんな状況下、ある時、青梅警察交通課のAさんが「奥多摩周遊道路だったらダメなの?」と言われました。
Aさんは我々の熱意に対し、 成木街道の使用は無理だが、何とかしてやりたいと思われたのでしょう。2008年夏のことです。今、思えば、このAさんの言葉が 東京ヒルクライムシリーズ誕生のキッカケとなったのです。
但し、奥多摩周遊道路と云っても、夜間通行止(19:00〜08:00)が実施されている時間帯を使っての開催ということです。それでも、 あまりに 突然のことだったので、その瞬間に反応できませんでした。ノーモーションで強烈なパンチが飛んできたという感じです。
その当時は、 成木街道のことで頭がいっぱいで、奥多摩周遊道路は全く頭の中にはありませんでした。因みに、成木街道の道路使用許可が下りない 原因は、それが都道と云うそれなりに交通量がある生活道路だからです。
自転車乗りに取って、奥多摩周遊道はたいへん魅力があります。路面の状態、周囲の環境は抜群です。特に路面に関しては日本一です。 東京の自転車乗りなら一度は訪れる人気スポットです。世間一般の自転車乗りには成木街道よりも遥かにそそられる道路です。
成木街道の道路使用許可を取得することに全く可能性が見いだせない今、奥多摩周遊道でのヒルクライム開催を願うようになって いきました。
とにかく、以前から東京都だけに誰もが参加できる自転車レースが存在しないことに、どうしても納得のいかないものが あったからです。 近隣の山梨県や埼玉県などにはあるのに、なぜ、東京都だけにはないのだろうか。片や、マラソン大会はごまんとあるのに。
この歪(いびつ)な現状に風穴を開け、自転車レースにも、マラソンと同じように広く知ってもらい、市民権を得たいと云う強い気持ちがありました。 そんな思いがあり、もし奥多摩で開催できれば、成木にも良い風が吹くのかもしれないと、何となく感じました。
そして、周遊道路を管理する東京都西多摩建設事務所(以降、西建と称す)へ話に行った所、警察がOKというのなら西建としては 反対の理由はないとう回答でした。
さらに、東京都が奥多摩町に管理を委託している公園施設「山のふるさと村」(以降、山ふると称す) へも話に行きました。管理者の東京都は、近年、“山ふる”の利用者が少ないので、スポーツイベントの開催には歓迎の意向を 示されました。そして、奥多摩町からは地域活性化を期待して、後援を頂くと云う約束を取り付けていました。
2008年10月14日、青梅警察署員5名と大西とで、奥多摩周遊道路でのヒルクライム開催に向けた実地検分を行いました。
周遊道路沿いには 民家もなく、いるのは猿だけ。それに上下線共にゲートで封鎖されている時間帯での開催とあって何の問題もないと云うことになりました。
但し、我々の希望は麓の奥多摩ゲートから東京都道路最高地点である風張峠(標高1146m)までの約13qを使用することでした。 誰でもてっぺんまで上りたいものですから。
でも、その時立ち会って下さった交通課のAさんのアドバイスを受け入れ、先ずは9合目地点にある月夜見第2駐車場までの約11q としました。なぜなら、残りの約2q部分の道路は五日市警察署の管轄だったからです。この時は立ち上げることを最優先にし、 残り2qはその後の課題にしておくことにしました。
その4年後、2012年からゴール地点をてっぺんの風張峠にすることができました。
いよいよ開催に向けて動き出そうとした矢先、警備課から「待った!」がかかりました。警備課のマンパワーでは早朝の遠く 離れた奥多摩周遊道路での自転車レース(ヒルクライム)を警備するのは困難という理由からです。
その当時、2001年に起こった兵庫県の明石歩道橋花火事故での死亡事故を巡って裁判が行われており、それが警察の警備に原因が あったという判決が大きく影響していると感じました。
イベントは企画立案した者が安全策も講じ、全責任を負うのが当然で、 警備に当たった警察に事故の責任を負わせるというのは如何なものでしょうか。世間一般、それが当然の理でしょう。あの理不尽な判決以来、 全国で様々な新規イベントの開催が難しくなってしまったのも事実です。
そういう背景があり、警備課から見て、我々の大会運営に不安を抱かれたのでしょう。確かに、その当時、我々の運営は現在と 比べると雑でした。その後、警備課に厳しく指導してもらうことになり、大会運営での安全対策の質は飛躍的に向上しました。 今となってはたいへん感謝しています。
しかし、当時は警備課の壁を何とか突破せねば、と焦りました。開催日は真夏の2009年7月26日と決めていたからです。
交通課からはすでにOKを貰っているのですが、道路使用許可と云うものは、交通課と警備課の2か所に承諾してもって、 初めて効力を発するものなのです。
その後、幾度となく警備課へお願いに行きましたが、はね返されるばかり、全然埒が明きません。
そうこうしているうちに年が明け、 2009年になってしまいました。7月26日に第1回大会開催なら、2月には許可が下りていないと準備期間がなくなり、自然消滅という ことになります。
そうなると、東京都はいつまで経っても自転車レース皆無という後進国のままです。オリンピック開催を誘致しようとしながら、 世界的に人気の高い自転車レースが皆無というのは恥ずかしい限りです。
そこで、追い込まれた大西は最後の手段に訴えることにしました。それは当時の石原慎太郎都知事への直訴です。まさに “窮鼠猫を噛む”と云うやつです。
日本の警察機構のトップは総理大臣と知事の2本立てです。上からの指示があれば、現場(青梅警察)は それに従って動くことが容易になります。
実際の方法としては、直訴状を書き、インターネットで送ることにしました。A4紙1枚以内に都知事を納得させられるだけの文面を 書かねばなりません。だらだらとした長い文面など、誰も読んではくれないからです。これが”最後の砦”と思い、一語一語神経を使って 書き上げました。
そして、2009年2月13日に石原都知事へ直訴状を送付しました。そのわずか3日後に警備課長のBさんから電話がありました。内容は 奥多摩周遊道路でのヒルクライム実施に向けて、話合いをしようと云うモノでした。あまりの反応の早さに驚きました。
石原都知事本人が読まれたのか、 それとも秘書か、副知事か、何れにせよ、都知事がゴーサインを命じられたことには間違いありません。この時、開催に強く反対だった Bさんは大西の暴挙?に相当驚かれている様子でした。
これを機に7月実施に向けてトントン拍子にことが運びはじめました。ところが、本筋ではないところで、思わぬ出来事が起こりました。 世の中、何が起こるか分からないもので、これぞ、全くの想定外と云う奴です。
警察はもちろん、西建等々、各関係各所からの承認もすべて整ったので、4月頃にKFCのホームページに開催情報をアップしました。
その直後、これを見た某自転車競技連盟(以下、某車連と称す)がホームページの内容をそっくりパクリ、同じ内容のものを青梅警察へ 申請したのです。Aさんのアドバイスで、てっぺんの風張峠からあえて2q下に設定したゴール地点も同じ、スタート地点も、 その他のタイムスケジュールもほとんど同じです。
ホームページにアップした内容に行きつくまでの試行錯誤の過程をよくご存じの青梅警察の交通課も警備課も相当に驚かれた様子でした。 その時に進行中の案件と同じ内容のものが、もう1件、別の団体から突然申請されたのですから当然でしょう。
そして、警備課長Bさんから「大西さん、某車連って知っている?」という問い合わせ電話がありました。「いや、全然知りません。」 とだけ答えました。それまでその連盟の名前すら聞いたことがなかったのです。Bさんは、電話をかけた理由については何も 話されなかったので、大西もその電話を気に留めませんでした。
まさか、自分の知らない所で、パクリ内容の申請書が提出されている なんて、 夢にも思っていませんでした。日本国内にパクリ中国のような胡散臭い団体があったとは、驚きでした。
某車連は他人の褌(ふんどし)で相撲を取ろうとしたのです。さらに、呆れたことがあります。彼らの申請内容の中で、 ホームページ情報との唯一違う点があるのです。それは開催日を我々の7月に対し、その前月6月にして申請していることでした。
すなわち、某車連が最初に奥多摩周遊道路で大会を開催したと世間的には映る訳です。そして、我々は彼らを真似て、 ”二番煎じ”で開催したと云うシナリオになる訳です。姑息な企みです。
警察関係者は、大西のここへ至るまでの長年の苦労をよくご存じなので、さすがに6月開催は承諾することはできず、 10月開催の条件で許可を出して下さったと云う次第です。
因みに、役所である警察は都民に平等でなければならず、我々に道路使用許可を出せば、 その申請条件が全く同じならば、某車連にも出さねばないということです。
でも、どんな業界でもマナーと常識というものがあってしかるべきです。しかし、某車連には、それが無いようです。某車連と言えば、 我々弱小とは違って、会長は某国会議員であり、東京都公認の下、自転車競技の業界をリードする立場にある団体のはずです。 自転車競技を愛する者として、 これには心底ガッカリしました。
これまで東京都に誰もが参加できる自転車レースが皆無だったという理由がハッキリしました。
そんなこんなを乗り越えて、2009年7月26日、念願の奥多摩周遊道路を使った「第1回東京ヒルクライムOKUTAMAステージ」を 開催することができました。
周遊道路のゲートがオープンする午前8時までにレース終え、ゴールゲート等々の備品を全て撤収し、 何もなかったかのように全てを元に戻しておかなくてはなりません。これが開催の絶対条件です。 分刻みの運営スケジュールを消化するため、他のイベントには ない独特の緊張感があります。
早朝5時位から準備を始め、7時半頃には全てを完了させます。優秀な我がKFCメンバーだからこそ成せる業(運営)であって、 誰もができるというモノではありません。かつて、周遊道路の管理者である西建の職員の方から「まるで、マジックの様だ。」と 嬉しい評価を頂いたことが あります。
我がKFCメンバーはすべての面において優秀な訳では決してありません。一芸に秀でた 雑多集団です。皆、ここ一番、適材適所で200%の力を発揮してくれます。スーパーが付くほど頼もしい仲間たちです。
因みに、某車連は第1回大会を10月に 開催したとは聞きましたが、その後の消息は聞こえてきません。
最初に奥多摩周遊道路のアイデアを下さった交通課Aさんは大会が無事成功裏に終わるようにと、前年の実地検分の時から 大会終了までいろいろ気を使って下さいました。
Aさんがいらっしゃらなければ、OKUTAMAステージ、その後に続く、東京ヒルクライム シリーズは生まれていなかったと云っても過言ではありません。
また、当初は強く反対されていた警備課長Bさんも大会終了後に「上手くいって良かったね。」と言葉を掛けて下さいました。 Bさんに対しては、都知事に直訴状を送った相手と云う意味で、負い目をずーっと感じていました。それ故、この言葉は何よりも嬉しいモノでした。 す〜っと 気持ちが軽くなりました。
そして、その後も、Bさんにはトレラン大会を含む他の大会運営に関しても、安全面を中心に親身になって指導して 頂きました。そのお蔭で、我々KFCの安全に対する意識レベルが格段に向上しました。大感謝です。
「第1回東京ヒルクライムOKUTAMAステージ」を終え、しばらく経って、思わぬ朗報が成木7丁目の中島(成木の家オーナー)さんから 伝えられました。
何と、青梅警察がNARIKIステージの件で話合いを持ってくれると云うのです。なぜ、こうなったかと言いますと、 地元の里仁会(山林所有者の会)会長武藤さんが警察署長と会う機会があり、その場でNARIKIステージのコース延長の件をお願いして 下さったと云うことです。
それを受けて、青梅市自治会連合会第7支会長、成木7丁目自治会長、青梅市役所職員、それに大西の4者で青梅警察に出向き、 成木街道5q部分の使用に関して話合いをしました。
その後、トライアスロン界の第一人者で、自転車に定評がある松丸真幸選手に青梅まで出向いてもらい、警察官立会いの下、 従来の常盤林道5qに成木街道5qを加えた総延長10qを試走してもらいました。
これによって各ポイントに於けるトップ選手の通過タイムがはっきりし、 レース展開の正確なタイムスケジュールを算出することができます。さらに、このデータで通行止めの時間帯も決まります。 この役目は松丸クラスの実力者でないと務まりません。
因みに、前年のOKUTAMAステージ開催の際も松丸選手に試走してもらい、 正確な競技運営のタイムスケジュールを作成しました。
こういう作業を積み重ねて、ようやく成木街道5q部分の道路使用許可をもらうことができました。続いて、都道の管理者である西建へ 出向き“道路一時使用願い”を申請しました。
この時、応対して下さった職員から、都道でう回路のない部分を500mもの長さに亘って 通行止めにした前例はないと。皇室行事とオリンピックを除いては有り得ないと云う回答でした。
だから、青梅警察が道路使用許可を 出すはずがないと云う立場でした。青梅警察に確認を取ってみると言われました。とにかく、その日は申請資料を手渡して帰りました。
数日後、再度、西建を訪れたところ、“道路一時使用願い”は受理され、承認されていました。警察がすでに承認していることが 功を奏したようです。それに、この時は前年のOKUTAMAステージ開催に際して、大西が都知事に直訴した文面もご存じでした。あの1件は 奥多摩周遊道路の管理者である西建にも回っていたことを、この時、知りました。
交渉を始めて、ようやく4年目にして都道である成木街道の5q部分を競技コースに加えることができました。
そして、2010年8月15日に 「第4回東京ヒルクライムNARIKIステージ」を総延長10kmで開催することができました。ここへ至るまで、長い道のりでしたが、 地道な努力が実を結んだという訳です。我々だけでなく地元成木の関係者も喜んで下さいました。
いかに強固な警察の壁と云えども、 諦めず、粘り強く話合いを続けて行けば、道は開けると云うことを学びました。そして、 我々KFCトライアスロンクラブが一歩成長した瞬間でもありました。
2011年6月2日、突然、檜原村役場教育委員会から大西の携帯に電話が入りました。内容は檜原村でヒルクライムレースを開催したいので 手伝って欲しいと云う内容でした。
そして、すでに開催日は10月2日に決まっていると云うことです。ということは、後4か月しか時間がありません。 それにしても、唐突な話であり、電話の向こうの雰囲気から、どことなく“お困りの様子”、それに“急を要する気配”を感じたので、 とにかく、会って、経緯を聞かせてもらうことにしました。
2年後の2013年9月29日に檜原村が東京国体自転車競技の運営を一部担うことが決まっており、その参考になればと、2010年7月11日開催の 「第2回東京ヒルクライムOKUTAMAステージ」を見学されたと云う。
檜原村には、これまで全国区のスポーツイベントはなく、 何かできないだろうか、と云う思いがずっとあったそうです。そういう素地があり、OKUTAMAステージを観て、檜原村にも ヒルクライムレースならできるのではないか、という考えに至ったと云うことです。
そして、その1年ほど前から国体運営の準備を通じ知り合っていた某車連に競技主管を依頼し、開催日を10月2日に定め、檜原村を挙げて準備を 進めて来たと云う。
しかし、 準備も仕上げ段階に入った5月、突然、某車連に断わられたと云うことでした。理由は条件面で折り合いが つかなかったということです。そして、困り果てた担当者が大西に連絡を取ったと云う経緯です。
我々KFCに“檜原村の考えに沿った条件で ヒルクライム大会を立ち上げて欲しい“と云う依頼でした。それにしても、檜原村役場で、再び某車連の名を耳にすることになろうとは、です。
担当者に並々ならぬ熱意を感じたこともあり、その場で引き受けることにしました。さっそく急ピッチで準備を進めました。 コースの見直し、競技運営のタイムスケジュールの作成、五日市警察への道路使用許可申請提出、ホームページでの告知、 参加者募集開始等々です。肝心の道路使用許可は、我々がすでによく似た立地条件のOKUTAMAステージを運営していたので、 比較的すんなりと頂くことができました。
また、マンパワー部分である地元の協力は役所が受け持つという風に、役割分担しながら 効率よく準備を進めることができました。
4か月と云う短い準備期間でしたが、立地条件が似ているOKUTAMAステージの運営ノウハウをそのまま注ぎ込むことができたので、 何とか予定の2011年10月2日に「第1回東京ヒルクライムHINOHARAステージ」を開催することができました。
この時点(2011年10月2日)でNARIKIステージ、OKUTAMAステージ、HINOHARAステージという3ステージを有する東京ヒルクライムシリーズが 自ずと構築できたことになります。
2007年7月当時に漠然と感じたヒルクライムシリーズが、何と、僅か4年後の2011年に 具現化したのです。こんな短期間で、 本当に実現するなんて、奇跡のようなものです。そして、何もなかったその当時に将来のシリーズ化を感じて「ステージ」という名称を付けたのも 正解でした。
また、HINOHARAステージ開催から、青梅を拠点に活動している実業団「輪千レーシングチーム」に本格的に運営を手伝って もらうようになりました。チーム監督の輪千さんは輪千自転車店のオーナーでもあり、昔から自転車のメンテナンスなどを通して、 懇意にさせてもらっていました。
そんな関係があり、以前から、彼らが日の出町で「日の出町ヒルクライムミーティング」と云う名称で年間に2〜3回開催していた大会を 「東京ヒルクライムシリーズ」の一つに加えられないかと云うことになりました。我々としては何の異存もありません。Welcomeです。
そして、 年1回開催の「東京ヒルクライムHINIODEステージ」と名称変更し、新たに2013年度から東京ヒルクライムシリーズに加わりました。
2012年度からシリーズ戦とし、年間合計ポイントの最も多かった男女それぞれの選手に、その年の最終戦の表彰式で シリーズチャンピョンジャージの贈呈を行っています。
世界の3大スポーツイベントと云えば、オリンピック、サッカー・ワールドカップ、ツール・ド・フランスです。 それほど自転車レースは世界中の人に愛されており、愛好家もたくさんいます。
そして、東京都は7年後に念願だったオリンピックを開催する ことになりました。そうなると今後益々、世界中からスポーツ関係者が東京へやって来ることになります。 そんな状況下で、もし東京都に 誰もが参加できる自転車レースが皆無であれば、恥ずかしい限りです。
ヨーロッパ先進国の都市ではランニング大会と自転車レースとがバランスよく開催されています。かつての東京都のように、 ランニング大会はごまんとあれど、自転車レースが全くないというのは、自転車愛好家の多い外国人には歪(いびつ)に映ります。
それを思うと、東京オリンピックを控えた今、東京都に自転車レース(ヒルクライムシリーズ)が存在しているのは、 本当に良かったと思います。 紆余曲折はありましたが、これまで各ステージの立ち上げや運営に係わって下さった多くの皆さんには本当に感謝です。
2013/10/02 KFC記