(ロタブルー・トライアスロン誕生秘話)
1991年4月にフレンチ・ポリネシア(=タヒチ)のモーレア島で 「タヒチ・インターナショナル・トライアスロン大会」に参加した。 この大会が我々KFCトライアスロンクラブ(以後KFCと略す)の トライアスロン初体験だった。
初レースを海外のタヒチ大会に決めたのは、 以下の理由だった。
前年の夏に、TVで琵琶湖アイアンマン大会を観た大西はトライアスロンを始めようと思い立ち、 仲のよかった10人ほどの仲間に声を掛けた。 高価なバイクを買ったり、それまで馴染みのなかった水泳練習を始めたりして、 思っていた以上にトライアスロンを始めるということはたいへんなのである。 皆のモチベーションを維持するため、本気モードで練習に入る前に、先ず目標レースを設定しておくことにした。 せっかくだから海の綺麗な最高のロケーションで初レースがしたいと思い、 ちょっと贅沢に南の島の大会に決めたのである。 当時、旅費は一人当たり約30万円と安くはなかったが、 後になってみれば、この選択は大正解だった。
このレースの距離は、スイム1.5km、バイク40km、ラン10kmというオリンピック・ディスタンスだった。 初レースには「持って来い」の距離だった。
参加選手の顔ぶれは豪華で、ブラッド・ベーベン(豪)、 グレッグ・ウェルチ(豪:当時の世界チャンピォン)、ニック・クロフト(豪)、 クリスチャン・ブストス(チリ:ハワイ・アイアンマン2位)、 ミケリー・ジョーンズ(豪:シドニーオリンピック2位)等など、 世界でも一線級の錚々たる面々であった。初めから彼らと同じ土俵に上がれて、 彼らの人間離れしたスピードに唖然としたものだ。 同時に、トライスロンという複合競技の面白さ、楽しさ、 さらに、「トライアスロンは南の島がよく似合う」ということも心に強く残った。
非常に楽しかったので、翌1992年4月にも前年の10名+αで参加した。 この年は、当時絶頂期にあった宮塚英也選手も参加していた。 結果は、ウェルチを抑えてベーベンが優勝した。女子優勝はジョーンズであった。 因みに、我がKFCの順位は前年同様散々なものだった。 最下位のポジションは、前年に続き、この年も我がKFCのメンバーの一人がガッチリ抑えた。
翌1993年大会も皆で参加しようと決めていた。 ところが、フランスが南太平洋フランス領ポリネシアにあるムルロア環礁で、突然核実験を実施したのである。 その影響でこの大会は急遽中止になってしまった。
日本ではイメージの良いフランスだが、南太平洋の島々では、昔から数々の悪行をおこなっている。 この核実験もそのひとつである。
しかし、皆すでに休暇も取っており、4月はタヒチに行く気満々だったのである。 直前に、中止と言われても困る。そこで、大西は、未だ訪れたことはないが、 以前からずっとその存在が気になっていた島「ロタ島」へ、トライアスロンとは無関係に観光旅行をしようと皆を誘った。 この時のメンバーはタヒチへ行く予定の10名ほどだった。
この頃のロタ島には「パウパウ・ホテル」(1999年3月閉鎖)と 「ココナッツ・ビレッジ」という日系の2つのホテルしかなかった。 我々はウェイディング・ケーキ・マウンテンの麓にあるパウパウ・ホテルに泊まった。 客室50、レストラン、それに、小さなプール、 プールサイドにオープンエアのテラスやカウンター・バーを備えた質素だが、味わいのあるホテルだった。 このカウンター・バーは人気があり、ホテル客だけでなく、 地元の人たちもよく利用していた。そのため、地元の人たちとのちょっとした交流の場にもなっていた。
濃い緑のジャングル、青い海、心地よい海風、 こんな手付かずの自然が残っている島が日本の近くにあることに、我々は非常に驚いた。 一大観光地グアムとサイパンの間にありながら、開発の手が全く入っていない、 不思議な島があるもんだと感じた。この時は、これといった島情報を持っていなかったので、 ご多聞に洩れず、我々もガイドブックに従って テテト・ビーチやフルーツ・ファームなどの観光スポットといわれる場所を見て回った。
しかし、好奇心が頭をもたげ、観光コースを逸れ、ヒヤリとしたこともあった。 スイミング・ホールへの途中、沖のさんご礁に錆びて朽ち果てた難破船を見つけた。 ビーチから200m位離れていたが、引き潮の時だったので、 皆でさんご礁の上を歩いて傍まで近づいて行った。見上げるほど大きい貨物船だった。
その時、突然背丈3〜5mの津波のような大波がひとつ、 我々に向かって打ち寄せて来ているのに気が付いた。「ヤバイ」と感じた。 この波に浚われたら、「オシマイ」であることは直ぐに分かった。 比較的ビーチに近い場所にいた者は走って逃げることができたが、 難破船の傍まで行っていたものは、そんな時間はなかった。 大波に飲まれる直前に、皆、手当たり次第にサンゴや船体に必死にしがみ付いて耐えた。
一瞬の出来事だった。皆の身体は完全に大波に呑まれて消えた。 大波が去った瞬間、皆の大声が聞こえた。普段からのトレーニングの成果だろうか、 皆、大波に打ち勝ったのである。良かった!今、思っても本当に危なかった。 皆よく生きていたものだ。それ以後、この難破船を見る度にあの一瞬を思い出してゾッとする。 (現在では、その難破船も朽ちて小さくなり、台風で場所も移動している)
滞在中に、日本ではあまり馴染みのない「ウォーカトン(競歩)」という恒例の島民イベントが開催されることを知った。 そこで、それに皆で参加することにした。 皆、競歩などの経験はなく、早足で歩けば何とかなるだろうと軽く考えていた。
参加費は5ドルだった。毎年、ヘンリー・マングローニャという人が優勝していた。 距離は5km、参加者は80名くらいで、ほとんどがローカルの老若男女であった。 外国人は我々だけだった。外国人の参加者は珍しかったのだろう、周りからの奇異の視線を強く感じた。 スタートして直ぐに、そのヘンリーを先頭に縦長の集団が出来上がった。 競歩は始めての経験だったので、周りの様子を見ながら第2グループを速足で歩いていた。 ランニングと違って、速足は勝手が違う。ストレスが溜まる。
2km位進んだ地点で、KFCメンバーのひとり、藤坂がコツを掴み、 ヘンリーを負かすことができると思うのでペースアップをしたいと伝えてきた。 地元の人の心境を考慮して、「トップには出るな、2番手をキープするように」と伝えて、先に行かせた。
藤坂は尻を左右に振る競歩独特のユニークな走法で、 あっと言う間に300mほど前を行くヘンリーに追いついてしまった。 明らかに我々とはスピードが違う。競歩の経験などないのに、 なぜ、ぶっつけ本番で完璧な競歩ができるか、不思議な奴である。
ヘンリーは、突然参加してきた見知らぬ外国人にプレッシャーをかけられ、 リズムを乱し、ゴール手前で失速してしまった。 余裕ですぐ後方に付けていた藤坂は、先頭には出るなと言われている手前、 慌ててシューズの紐を結ぶ仕草をして、2位をキープ。 そして、予定通り、ヘンリーは優勝、藤坂が2位、他のメンバー達は皆10位前後でゴールした。 島民たちと直に触れ合えて良い経験をした。楽しかった。島民の感情も害せず「めでたし、めでたし」であった。
そして、直ぐに、その場で簡単な表彰式が催された。 藤坂は2位の賞品として、20ガロンのガソリン券を貰った。 しかし、我々旅行者にはそんなもの必要なかったので、隣にいた地元の参加者にプレゼントした。 その人は、喜んでくれ、次回訪れた時には家に訪ねて来てと住所、氏名、電話を書いたメモを手渡してくれた。 その人が後にトライアスロン事務局の現地チェアマン(大会委員長)になるジェリー・カルボだった。 これが彼との最初の出会いであった。 また、優勝者ヘンリーも後にKFCロタ支部のメンバーになり、翌年のトライアスロンに参加することになるのである。
4泊5日の滞在を終え、帰りの飛行機の中で、「あの島でトライアスロンをやってみるか」と皆に問いかけた。 離陸して、濃い緑に覆われたロタ島を眼下に見た時、頭の中にパッと浮んできた。 その直前までは、この島でトライアスロンをやろうなんて夢にも思っていなかった。
そして、この突拍子もない問い掛けに、メンバーの誰ひとり反対しなかった、というか、無反応だった。 今となって思えば、わざと無視して、聞き流していたのかも知れない。
以前から隣島グアムのローカル・コミュニティーに精通していたので、 たくさんのチャモロ人の友人を持っていた。 だから、同じ民族であるチャモロ人の気質は大雑把には理解できていた。直感で「できる」と感じた。
この時点での「トライアスロン」というのは、自分達も他の選手に混じって参加して楽しむためのもの、 すなわち、タヒチ・トライアスロンの代わりになるレースをイメージしていたのである。 大会準備が進むにつれて、それには無理があると分かってくるのだが。
帰国後、直ぐにロタ・メイヤー(市長)にトライアスロンという競技をロタ島で、 来年の4月を目処に開催したいというファックスを入れた。 数日後にロタ・メイヤーから返事が届いた。 それには、開催に関してはOKだが、そのスポーツはどんな競技なのかという問合せがあった。 この島の人間はトライスロンというスポーツを見たことがないというのである。 レターでは説明が困難なので、その問いに対して、1.5km泳いで、40kmバイクに乗って、 その後10km走るという競技で、一度に3種目を連続しておこなう複合競技であるとだけ答えておいた。
早速、翌月に大西はロタ・メイヤーのマングローニャ氏に会いに行った。 この時点で唯一面識のあったジェリー・カルボにも連絡して、市庁舎に来てもらった。 前月の訪問時に、お互いに好感を抱いていたので、直ぐに打ち解けあった。 これは、正に、藤坂効果である。 こんなところで「ウォーカトン」に参加したことが生きてくるとは思いもしなかった。
彼は誠実で頭も切れると感じたので、市長に頼んで、 彼を現地サイドのチェアマン(大会委員長)に任命してもらった。 この直感は大正解だった。以後、細々したことは彼と連絡を取り合うことになった。
彼とのやり取りで今も忘れられないエピソードが数々ある。 バイク・コース上にはコーンを並べる必要があると言うと「whole(一本丸ごと)で並べるのか、 それとも、粒で一粒ずつ並べるのか」という返事。 こちらはカラーコーン、すなわち、パイロンのつもりが彼はトウモロコシと捉えたのである。 また、「その競技は1週間くらいで終わるのか」とも尋ねてきた。 半日で終わると伝えると、それがイメージできなかった様子で「信じられない!」と言った。 「なぜ、一日に3種目もやる必要があるのか」とも尋ねてきた。
言葉や文化の違う土地で、ゼロから何か(トライアスロン)を作り上げていくことは難しい。 ビデオや雑誌を持って行って、見せたり、あの手この手でトライアスロンという競技を理解させようとした。 そして、将来のことを考えて、どうしてもやっておきたかったのは、地元の人の参加を実現させることだった。 なぜなら、メイヤーを初めとする島のリーダークラスだけでなく、平民というか、 一般の島民たちにも受け入れてもらわなければ、このイベントが島に根付くことはないと感じていたからである。 それには、将来性のある若者を参加させるのが一番効果的であると考えた。
その為に、ロード・バイクを6台寄付し、島民達の苦手なスイムは東港内の浅い海で手取り足取りで基本を教えた。 バイクとランは何とかなりそうだが、スイムには相当の時間がかかると思った。 この頃、ロタ島には、マウンテン・バイクすらなく、 自転車に乗る習慣やジョギングなどのフィットネスに関する関心は全くなかった。 ロタ島ではほとんどの人が肥満体型をしている。トライアスロンのようなキツイ運動ができる人は少ない。 日本語の「デブ」のことをチャモロ語でも「Debu」という。今では、トライアスロン効果でバイカーやジョガーも増えている。
最初の訪問からちょうど1年後に、ロタ島で第一回大会を開催することになるのである。 その1年間の間に7度もロタ島に通った。 ロタ島民にトライアスロンという競技を理解してもらうことやコースの設定等々であった。
6月にも、実地調査の先発隊として、大西が3種目のコースが取れるかどうかを調べに行った。 コースが取れなかったら、何を言っても始まらない。全てがご破算になる。 コースの選定は最重要で、大会の質を左右するポイントと考えていた。
バイク・コースはこの島の中心街ソンソン村から飛行場へと延びている舗装路と最初から決めていた。 当時、この島には舗装路は、好むと好まざると、この1本しかなかった。 しかし、路面、道幅、周りの環境、どれを取っても申し分なかった。 道路脇には緑の芝生ゾーンがあり、南の島らしいヤシの木も海岸沿いに生えている。 その向うには、コバルト・ブルーのフィリピン海が見える。日本の道路とは違って雰囲気が明るい。 自ずと、バイクで思いっきり走ってみたくなる道だ。
ランは海岸沿いにジャングルの中に延びている地道(未舗装路)を使うことにした。 ネイチャー・アイランド・ロタ島らしくてよい。こんなロケーションはロタでしか体験できない。 この道は、日本統治時代にサトウキビを運搬するために日本人が敷いた鉄道の跡地ということだった。 途中、青い海を隔てて、ウェイディング・ケーキ・マウンテンを臨む人気の展望スポットもある。 現在では、この道も3kmほど舗装されている。
問題は、スイム・コースだった。最初は西港の近くにある「ツイックスベリー・ビーチ」を使おうとした。 ここはさんご礁に囲まれた巨大なプールのようなラグーン(礁湖)で、1500mのコースは楽に確保できる大きさだった。 しかし、実際に試泳してみると、浅い部分が多すぎて競技に使うには問題があった。
そこで、パウパウホテルの専属ダイバーであった高橋さんに相談した。 高橋さんは東港の沖合いを使ったらどうかと薦めてくれた。 それ以前から、東港の沖合に強烈な陽の光を浴びて蛍光色ブルーに輝いている不思議な海域があるのは知っていた。 しかし、この海域は完全な外洋に当たるので、水深も深く、安全面で問題があると考えていた。 そこで、先ず、高橋さんにこの海域の安全面について尋ねた。外洋で一番心配になるのはサメ等々の危険な大型魚の有無である。
通常、怪我さえしていなければ、サメが泳いでいる人を襲うことはない。 サメだって人間が怖いのである。問題は、サメの姿を見て人間がパニックに陥ることである。 大会を運営する者としては、この不安は取り除いておく必要があった。
高橋さん曰く「あそこにはサメは入ってこない。なぜなら、海底にはサンゴがなく、一面が白砂で覆われている。 そのため、餌になる小魚が生息してないので。」ということだった。 過去数年間、毎日ダイビングの行き帰りにこの海域の上を通っているけど、サメは見たことがないという。
早速、その海域を実地に調べることにした。高橋さんがダイビングに行く途中にそこを通過するというので、 ボートに便乗させてもい、そのブルーに輝く不思議な海域で落としてもらうことにした。
飛び込んだ。その瞬間、これまで経験したことがない、 蛍光色ブルーの世界がゴーグルを通して目の前に広がったのである。
水深50m前後と聞いていたが、海底の真っ白い砂の波模様がくっきりと見える。 強烈な陽の光が海底に射し込み、それが海底の白砂に反射して、上からの光線と加わり、 海中の方が海上より明るいのである。不思議な現象である。 これが蛍光色ブルーの仕組みだったのである。こんな現象を体験したのは初めてだった。
流れもほとんどない。一匹の魚も目に入らない。青の世界である。 しばらく、その辺りを独りで泳ぎ回ったが、孤独感や危険を全く感じなかった。 ここは素晴らしいスイム・コースになると直感した。日本人がここを泳いだらどんな反応を示すのか、楽しみになった。 スイム・コースは迷わずここに決定した。密かに、宝物を見つけたような、得した気持ちになった。 1年後、ここを泳いだ選手たちが「宇宙遊泳をしているよう」と表現したくらいである。
後で、聞いたことだか、ここを泳いだ島民は、かつて誰もいないという。 水泳が苦手な島民達は深い海で泳ぐ習慣がないのである。 昔から、水難事故防止のため、沖には危険なサメがいると語り継がれていたのである。
念には念を入れ、この辺りの海を熟知している「ダイブ・ロタ」 オーナーのマークにもサメの有無について尋ねてみた。 彼も同じくいないと。泳いでも問題はないと言った。 次に、島民たちにこの島の陸地近くで、過去にサメによる事故の有無を尋ねてみた。 答えは「NO」であった。これで、大雑把ではあるがトライアスロンのコースは3つとも出来上がった。
次回、数名のメンバーで訪れた時に、自慢のスイム・コースに連れて行った。 この青の世界は口では上手く表現できない。「百聞は一見に如かず」である。皆の反応は予想通り、大感激だった。 レース本番で日本人選手に体験させるのが楽しみになった。 その後も、皆で数回訪れて、島の情報を集めたり、島民との交流を積極的に行ったり、 コースの完成度を高めるために、スイム、バイク、ランの試走を幾度となく繰り返したりした。
第1回大会日は1994年4月9日(土)に決定した。 8月頃から日本国内での参加者を募ったのだが、一クラブの開催するレース、 練習会に毛の生えたような大会だろうと思われて、思うように人は集まらなかった。 日本国内に関しては、トライアスロンといえば、市町村が全力を挙げてやるものと相場が決まっていたからである。
我々としては、当初考えていた自分達が参加するという考えは薄らいで、 ロタ島の自然をトライアスロンという競技を通して大勢の人に体験してもらいたいという気持ちが強くなっていた。 参加してもらえれば、絶対に満足してらえるという自信があった。 しかし、当時はインターネットもなく、一クラブの資金力では十分なプロモーションができなかた。 それに、日本ではロタ島の存在すらほとんど知られていなかった。
珠洲大会、徳之島大会、佐渡大会など各地の大会へ参加を兼ねて出向き、 それぞれの受付会場で、手当たり次第にゲリラ的チラシ配りをやった。 さらに、日本経済のバブルが弾けて、この頃から目に見えて景気が悪くなっていたのも響いた。
経費節約のため、休日を利用して、皆で集まって、横断幕やゼッケンや競技説明に使う資料等々を手作業で作った。 当時は、パソコンや拡大コピーは一般的に普及していなかった。最も時間を要したのは横断幕である。 大きな布を買って来て、絵心のある者が中心になって、下書きから色を付けまで、皆でやっていくのである。
「Start」「Finish」「Welcome」「Congratulations」の4枚を仕上げるのに4ヶ月ほどかかった。 地道な裏方作業だが、皆黙々とこなした。 ゼッケンも1枚1枚手書きという原始的なやり方だった。家中、至る所にペンキのシミができていった。
応募してきたトライアスリートは25名と寂しいものだった。 利益を考慮する常識的な大会であれば、開催を中止してもおかしくはない参加人数であった。 しかし、我々の目的は利益ではなかった。 「一がなければ、十はない」をモットーに、第1歩を踏み出さなければ、何事も始まらないと考えていた。 急遽、大会としての体裁を整えるために、KFC関係者15名ほどを、半ば強制的に参加させることにした。
そんな折、当時、日本各地の大会主催者から引く手数多の人気プロトライアスリート、 宮塚英也選手と白戸太郎選手から参加したいと、申し出があった。 宮塚選手は、スポンサーの手前、招待という形式がなければ、参加できない規則なので、 「メモ書き」でよいから招待状を送って欲しいと依頼があった。 そうすれば、旅費は自前で行くと。彼は、我々が手弁当でレースを立ち上げようとしているのを知っていたのである。 一方、白戸選手は、ちょうどその時期、恒例のオーストラリア合宿を行っており、 わざわざオーストラリアから成田経由でロタに来てくれるという。もちろん、二人ともノー・ギャラである。
ロタへの途中、サイパン・ローカル空港待合室で顔を合わせ、お互いに相手の参戦を知って驚いたという。 後に聞くところでは、自分が余裕で優勝できるだろうと思っていたのに、 お互いに強敵出現で「話が違う(予想が外れた)」と思ったそうだ。 また、現地で彼らの参加を知った参加者たちは、こんな小さな大会にいつも雑誌で見るトップ選手が二人も参加していることに驚いたという。
これが縁で、彼らとは、その後ずっとよい付き合いが続いている。 KFCには、大西を中心に核になるメンバーが外国人も含め20名ほどおり、 それ以外に、イベント毎に色んな才能や技術をもったスペシャリスト達が駆け付けてくれる。 お金ではなく、KFCのやり方に賛同してくれた人たちばかりである。 KFCの台所はいつも余裕がなく、質素倹約で運営に当たっていることを皆がよく知っている。 有難いことである。この人たちのことを、誰かが、いつの頃からか、「KFC組」と呼ぶようになった。 宮塚選手や白戸選手もこのKFC組の一員にいつの間にか組み込まれている。
小さな大会であったが、彼らの参加で「場」の空気が引き締まったものになった。 しかも、初めてトライアスロンを観る島民たちに、第一線級のパフォーマンスを見せることができたのも価値があった。 彼らの群を抜くスピードを目の当たりにして、島民たちは異常に盛り上がった。 スイム、バイク、ランともに、島民たちの常識を遥かに超えた、かつて見たことのないスピードだったからである。
苦しかった立ち上げ時の第1回大会を盛り上げてくれた2人の心意気には、今でも心底感謝している。 年を追う毎に、アクセスが悪くなって行くにも拘らず、今尚、この大会が存続しているのは彼らの貢献によるところも大きい。 その後、新しくKFC組に加わった松丸真幸選手の貢献にも感謝している。
資金面に関しては、最初から自費でやると決めていた。 なぜなら、この大会を立ち上げることは、皆で大会に参加するのと同様に、 遊びの延長として捉えていたからである。だから、遊びにお金が掛かるのは当然と皆が自然にそう思っていた。 皆で高級外車を1〜2台買ったつもりでロタ大会へつぎ込んだ。
それでも、台所は常に火の車で節約モードにあった。 予想外の目に見えない細々した出費が多いのである。節約に対して、あれこれ知恵を絞った。
ロタ島は、当時の日本では無名の島、しかも、KFCという無名の一クラブのやる大会、 これらを考え合わせれば、端からスポンサーなどを期待することはできなかったし、期待もしていなかった。 サイパン島のマリアナ政府観光局にも、当時は胡散臭い日本人の集団が良からぬことを企んでいると思われて、 何の協力も得られなかった。我々もそんなサイパンの存在など眼中に入れていなかった。
可能な限り、資金不足を皆の汗と特異な才能でカバーした。我がKFCの強みは、 皆、何か得意なモノを持っているのである。例えば、英語の堪能な者、 コンピューターのスペシャリスト、泳ぎの達人、物マネの天才、走るのが得意な者、競歩のできる者、 素潜りのスペシャリスト、観察力の優れた者、人の性格を直感で見抜く者、誰とでも直ぐに仲良くなれる才能の持ち主、 神経質で融通のきかない生真面目な者、運転のスペシャリスト、料理の天才、ゴマすり、小心者、 メカに強い者、絵心のある者、IQの高い者等々である。一見、英語力やコンピューター知識以外は、 それほど役に立たないように思えるが、それがそうではない。人は適材適所に持ってくるとすごい力を発揮するものなのである。
大会日の1週間前に、準備のために、KFC主要メンバー10数名がロタに入った。 パウパウホテルに宿泊しながら、大会日に向けて、手分けして準備に入った。 スイム・コースのブイ打ち、東港のスロープ部分の苔取り、ソンソン村の道路掃除など、前半は力仕事がほとんどだった。
ジェリーには、大会当日のアワード・パーティとエイド・ステーションの準備など、 地元の人にしかできないマンパワー部分を主に頼んだ。
それ以外は、自分たちでやることに決めていた。トライアスロンの「ト」の字も知らない彼らには、 今年は観て、学んでもらうことにした。来年からは少しずつ手伝ってもらい、 行く行くはロタ島のイベントとして自覚させて、島民自身の手で全て運営して欲しいと漠然と願っていた。
ソンソン村のメイン道路上には砂や小石が結構あった。 この道路はバイク・コースの一部に予定していた。 そこで、この状態では、バイクがパンクする可能性が高いと思い、最初の作業として、皆でこの部分を掃除することにした。
先ず、竹箒を買って来て、道路を掃いて、土や砂を道路端に集めていった。 最初の日は朝から晩まで作業をしたが、予定の半分もできなかった。 この作業を始めて、二日目の夕方、同じ道を反対方向300mほど先からこちらに向かって、 突然、数人の男たちが道路を掃き始めたのである。我々と同じように、である。
その後、しばらくすると、ひげ面の厳つい顔をしたチャモロ人が我々の所にピックアップ・トラックを持って来た。 そして、我々が道路端に集めておいた土を「捨て場に運ぶ」と言って、スコップで荷台に積み始めたのである。 この時、この思いも寄らない行動にビックリした。何が起こったのだろうかと思った。
後で、彼が話してくれた所によると、ロタの道路を箒で掃く日本人など、かつて見たことがない。 「何をするのだろう、変な集団だなあ」と思って、それとなく、注意して観察していたそうだ。 そうしたら、翌日も、炎天下、自分たちの島の道路を黙々と掃いている。 それを見て、何の為かは分からないが、外国人に掃除してもらって恥ずかしいと感じてきたという。 「自分達の島の道路は、日本人から見れば、それほどまでに汚いのかな」と思い、 とにかく、自分たちも手伝おうということになったと話してくれた。 これが、その後に親友になるトミー・カルボとの最初の出会いであった。
次に取り掛かったのは、東港にあるスロープの苔取りである。 建造当時から苔取りの必要などなかったのであろう。 長い年月の間に、積もりに積もったヌルヌルの緑色の苔がビッシリと層になってこびり付いていた。 滑りやすいと気を付けていても、尻からステンと転んでしまう。選手が頭でも打つとたいへんなことになる。
これをワイヤー・ブラシを買って来て、朝から晩まで、5人がかりで2日間で全て削り取った。 ここはスイムから上陸して来る重要な部分、滑らないようにしっかり掃除しておく必要があった。 緑の絨毯のようだった表面がセメント色に変わって滑らなくなった。 この頃は、事情を知らない島民たちには、日本からやって来た掃除部隊と思われても仕方がなかった。
このスロープはボートの出し入れをする為のもので、苔があっても島民には何の問題もない。 この行動も島民には奇妙に映ったらしい。 しかし、地元では、何だか分からないけど、とにかく積極的に協力していこうという雰囲気が出来上がっていた。
1994年当時の東港の敷地は荒れ放題で、一面に鋭利なサンゴがむき出しの状態だった。 だから、当初、バイク・トランジッションは東港に接している舗装道路上とすることにしていた。
スイムの後、水際のスロープから道路までの移動は、素足を怪我しないように厚い敷物を敷こうと考えていた。 当時の東港は、ちょうど今のレストラン「ベイ・ブリーズ」前のビーチと同じ荒れ放題状態だった。
それが、何と、我々が苔取りした翌日には、東港に土を満載にした大型トラックが何台も入り、 その土をユンボとブルトーザーが均して、危険なサンゴを全て埋めてしまった。
「それって自然破壊では?」・・・「ノー・プロブレン」の一言・・・。
そして、最後にローラーがガッチリ固めて、フラットな広場にしてしまった。 あっと言う間に見違えるように綺麗に整地されてしまった。 そして、「ここにバイクを並べるとよい」と言う。これには驚いた。 普段はのんびりおっとりしていても、「やるべき時は、やる」チャモロ人の本質を、この時、初めて垣間見たのである。 因みに、第1回大会の時は、バイクラックがなかった。直接、地べたにバイクを倒して並べたのである。
【後記】この工事の責任者はメルチオ・メンディオラで、 その17年後の2010年1月にロタ・メイヤー(市長)になる。
続いて、未舗装であった5kmもあるランコースにも、ブルトーザーとローラーで整地して、 凸凹をなくし、フラットな走りやすい路面に変えてしまった。 この間、僅か2日間の出来事であった。これには感謝と驚きでいっぱいだった。
確かな理由は分からないが、島民との間に信頼関係が芽生え始めているのを感じた。
最近では、我々が道路掃除や苔取りなどの力仕事をすることはない。 大会の1週間前に、ロタ入りすると、それが合図になって、島民達が自発的に道路掃除や苔取り、 東港の整備などほとんどの作業はやってくれるようになっている。 昨年辺りから道路清掃用の特殊車両(当然、中古車だが)まで購入されている。
また、昔から時間厳守という概念を持たないチャモロ人たちも、こと、 トライアスロンに関するミーティングやセットアップの時間はしっかりと守るようになった。 マリアナ諸島では決められた時間に1時間程度遅れて来るのは当たり前で、 これを「チャモロ・タイム」と呼び、そんなことは誰も咎めない。 それが昔から延々と続いている「のんびりした南の島の生活」なのである。
次はスイム・コースの設営である。水深が30〜40mと深く、 さらに海底一面が砂なので、「根」になるものがなく、ブイ打ち(設置)が難しい。
そこで、パウパウホテルのダイビング部門の高橋さんと林さん(現セレナ・マリンサービスのオーナー)が、 3kmほど離れた海底に沈んでいた日本時代の砂糖キビ運搬用機関車の車輪を運んで来てくれた。
この運搬方法と云うのが、さすがダイバーといった感じの方法で、我々を驚かせた。 その方法とは、海面に巨大な空気袋を浮かべ、それに車輪を縛り付け、海底から少し浮かべた状態で、 ボートで引っ張って水中移動させるのである。一度に少しの距離しか移動できないので、 大会日に合わせて約1ヶ月前から少しずつ移動させてくれたのである。 この作業はダイバーでないとできない芸当である。有難かった。
また、距離の測定は長さ100mのロープを用いて、原始的な方法で計った。 ロタではロープは手に入らないので、この作業用に水に浮くロープを日本から持って行った。 この場面では、素潜りと水泳の得意なメンバーが大活躍した。当時はGPSなどの便利なハイテク機器はなかったのである。
海が苦手な島民たちは、スイム・コース設営に関しては、陸から見ているしかできなかった。
因みに、水深2〜3mの浅いさんご礁の海ならば、ブイにロープを付け、 ブロックを一つ括りつけて沈めるだけで簡単に完了するのだが、ここロタの深い海ではそうはいかない。
第1回大会は「ミクロネシア・トライアスロン・イン・ロタ」と名付けた。 現行の「ロタブルー・トライアスロン」という名称は、1996年の第3回大会から使用している。
参加者は日本からの「桜」も入れて40名、 サイパン、グアム、ロタの3島から23名の総勢63名だった。 それに対して、地元ボランティアは400名も動員された。因みに、この島の総人口は約1500人である。
スタート時間は島民達のブーイングに反して、09:00に設定した。 なぜなら、参加者に陽射しの下で輝くロタブルーを十分に堪能してもらうためだ。 しかし、これが間違いだったと云うことは、直ぐに分かった。 スイムはよくても、バイク、ランが暑過ぎるのである。 選手だけでなく、給水場や誘導等々のボランティアたちにとっても暑過ぎるのである。 翌年から島民たちの言う07:00に変更することにした。 この決定に島民たちは「我が意を得たり」とニンマリ微笑んだ。「郷に入っては郷に従え」である。
KFCという日本人が持込んだトライアスロンと云う競技を観るために、大勢の人たちがスタート会場である東港に集まった。
メイヤー・イノス(前年末の選挙で、1994年1月から新市長イノスに代わった)の号砲で競技がスタートした。 サメがいると語り継がれてきた沖合いを60余名の選手が波しぶきを立てながら泳いでいる。 島民たちは、この光景を目の当たりにして、サメが現れないのに驚いたという。
さらに、トップでスイム・アップしてきた白戸選手は、 その栄誉を称えるために握手で出迎えようとしたメイヤーの手を払いのけた。 この白戸選手の行為にも島民達は驚いた。
なぜなら、メイヤーはこの島の最高権力者である。 この島で、そのメイヤーの握手を払いのけた者などかつていなかったからである。 手を払われたメイヤー自身もビックリしてポカンと放心していた。 白戸選手にとっては「ヘンな奴がウロウロとコース上に入ってきた」程度にしか思っていなかった。
これらの出来事はロタ島民にとっては、衝撃の出来事だった。 この後、白戸選手はロタではちょっとした有名人になり、島民から「タローさん、タローさん」と 親しみを込めてファースト・ネームで呼ばれるようになった。 その後も、毎年参加しているタローは、ロタではちょっとした有名人になっている。 おもしろいことに「TARO」と「ROTA」はよく似ている。
ロタからライ・マングローニャ、 ジョー・サントス、 ルディ・サントス、 ヘンリー・マングローニャ、 エド・バルシナスの5名の若者が参加した。 練習は積んだものの、彼らは皆スイム1500mには不安があった。 だから、KFCの菅沼とチームを組み、菅沼がスイムを終えた時点でタッチして、 ロタ5人衆は一斉にバイクスタートした。そして、ランとこなしていった。
スイムはパスしたが、当初の思い通り、何とか、ローカルたちをトライアスロンに参加させることはできた。 この意義は、案の定、後々大きな意味を持ってくることになる。
これ以後、彼らは勝手にKFCロタ支部を設立して、我々の代わりに自発的にたくさんの役割を担ってくれるようになった。 さらに、我々の手足となって動いてくれることも増えた。 KFCロタ支部メンバーになれるのは、ちょっとしたステータスになってくるのである。 レースに関しては、イメージ通りに展開し、怪我人もなく、成功裏に終わった。
【後記】2001年9月11日のニューヨーク同時多発テロの直後、5人とも米兵の一人としてアフガンやイラクの戦地へ派兵されてしまった。2010年現在、まだ、 誰も帰ってきていない。時々、戦地から近況を伝えるメールが届く。
レース終了後、トライアスロンを生で観たことやボランティアとして参加したことなどで、 島民たちのテンションが揚がっているのを感じた。話題も島中トライアスロン一色だった。 そして、我々がボランティア用に配った大会Tシャツを誇らしげに着ている人があちらこちらで目に付く。 余っていたら欲しいという人もたくさんやって来た。
その日の夕方に、島で最大の集会場「ラウンド・ハウス」でアワード・パーティを催した。 参加者へは、遥々日本から来てくれたのだから、最高の料理を用意してくれるように前もって頼んでいた。
パーティ会場に着くと、テーブルに並べられていたたくさんの料理は、予想以上に豪華なものだった。 メイヤーの指示の下、KFCの友人たちに恥をかかせてはいけないということで、 島の婦人会のオバちゃんたちが2日前から仕込みをして、愛情を込めて手分けして作ったものだという。大感謝であった。
有難いことに、この時の「KFCの友人たちは大切に扱う」という島ルールは今も変わらずに島民達の間で生きている。 だから、13年経った今も、我々は安心して多くの参加者を連れて行けるのである。
10日間ほどの滞在を終え、島を発つ間際に、ジェリー・カルボとトミー・カルボが嬉しいことを伝えに来てくれた。
「昔から、この島ではスポーツ・イベントに対する認識は全くなかった。 まして、トライアスロンのような同時に3種目もやる競技が、この島で開催できるなど、昨日まで想像すらできなかった。 我々島民にとって、トライアスロンは衝撃的な出来事だった。外国から資本が入って、 何かやるといっても、マリアナ界隈では、せいぜいサイパン島止まりで、過去、ロタで何かをやりたいと言ってくれた物好きはいなかった。 何かにつけて、ロタ島民はサイパンに対して、劣等感をずっと持ち続けてきた。 しかし、KFCと一緒になって、自然しか取り得のなったロタ島で、 ゼロからトライアスロンと云う高度なオペレーションのイベントを成功させた。 これによって、島民達に自信と誇りが芽生えた。ありがとう、Brother!」と目に涙を浮かべながら語ってくれた。
一大観光地サイパンに対して、ロタ島民がこれほど根深い劣等感を抱いていたことなど、それまで全然気が付かなかった。 そんな状況下で、今まで誰も省みなかったロタ島に惚れ込んで、見返りを期待せず、情熱を注ぎ込んでくれた外国人がいたことが、 それも親日派の彼らにとって、それが日本人であったことがよほど嬉しかったのであろう。
ロタの稀有な自然を堪能した日本人選手は喜んでくれると信じていたが、 ロタ島民からこんな気持ちの籠った感謝の言葉が聞けるとは夢にも思わなかった。嬉しい誤算であった。
2006/9/6 KFC記