今にして思えば、ロタ島の全盛期はパウパウホテル(Rota PauPau Hotel)が元気だった時代とともにあったと思う。その当時は、 それが普通だと思っていたが、1999年3月にパウパウホテルが閉鎖されてからは、ロタ島も元気がなくなってしまった。そして、 未だに復活の兆しすら見えない状況にある。
このホテルは1975年頃にロタ島好きの日本の若者によって建てられた。建設資材など何もないロタ島でホテルを 建設するのはたいへんな苦労だったと聞いている。いつ来るか分からない船(資材を積んだ)を来る日も来る日も待ち続ける毎日 だったと聞いた。
そんな苦労を乗り越え、ホテル完成後、25年間の長きに亘ってロタ島唯一のホテルとして営業を続けた。その後間もなく、 ココナッツ・ビレッジ(オーナーは名古屋の人)という木造コテージ風ホテルができたが、それでもやはりロタを代表するホテルは パウパウホテルだった。
パウパウホテルがなければ、我々KFCはロタへ観光に行くことは決してなかった。そうすれば、 ロタブルー・トライアスロン大会の誕生はあり得なかったし、過去それに参加した多くの選手も ロタを訪れることはなかった。ということは、 誰もあのロタ・ホスピタリティを体験することはなかったし、透明度50mを誇る「ロタブルーの世界」を体験することもなかったのである。
さらに、今ある「ロタリゾート&カントリークラブ」や「ロタホテル」も建てられることはなかった。なぜなら、 ロタリゾートの初代オーナー(大阪の人)やロタホテルの初代オーナー(長野の人)もパウパウホテルがなければ、この島を訪れることは なかったからだ。
パウパウホテルに泊り、この島に魅せられたからこそ、この島にホテルを建てたと聞いている。これら2つのホテルのオープンは パウパウホテル末期の1990年後半だ。日本経済のバブルが弾け、観光客が少なくなったロタ島でホテルが4つというのはどう考えても多過ぎる。 それもそのはず、両ホテルともオーナーの道楽で作られたと聞いている。
これらの事を思うに、パウパウの功績はロタにとって計り知れないほど大きい。パウパウ時代を作り上げたと言っても過言ではない。 しかし、それを理解している島民が何人にいるか甚だ疑問だ。おそらく皆無だろう。
1980年代の日本のバブル全盛期には自前の小型飛行機でグアム島から観光客を毎日運んでいた。多い日にはデイ・ツアー(日帰り観光) 客だけでも200人もあったと聞く。さらに、クルザーやグラスボート、それに観光用潜水艦まで所有していた。また、ロビーにはダイビングショップ もあった。テテトビーチにはビーチ・カフェまで経営していた。今では想像すらできない夢のような話だ。
そして、島民たちはこのホテルで働くことがステイタスであり、誇りでもあった。しかし、1990年頃から始まったバブル経済崩壊の煽りを受け、 日本の親会社がゴルフ場投資で失敗し、経営難に陥り、パウパウの収益を全て注ぎ込んでいった。その結果、1996年頃からホテル の設備維持のメンテナンスも困難になり、ついに1999年3月に終焉を迎えたのである。
この時、閉鎖を託され、本社から派遣された役員も辛かっただろう。 なぜなら、その人は25年前、いつ来るか分からない船を待ち続けた一人だったからだ。
ホテルの規模は客室が50室、レストラン、バーカウンター、プールなどを備えていた。中でも人気はプールサイドにあるオープンエアーの バーカウンターで、時がゆっくり流れていく、居心地の良いスペースだった。
早朝から深夜までコーヒーやビールを飲みながら、そこへ来る ローカルと宿泊客がおしゃべりする「憩いの場」だった。我々KFCもここでほとんどの時間を過ごしたものだ。 ロタブルー・トライアスロン大会立ち上げ時の打合せをしたのもここだ。
現在は朽ち果てた建物だけがジャングルに覆われ、ウェディングケーキ・マウンテンの麓に残っているだけだ。今でも時々訪ねることがある。 ここに立つと「夏草や、兵どもが夢の跡」という芭蕉の俳句が頭をよぎる。
2年ほど前にパウパウの跡地を中国資本が買収してホテルを建てるなどと言う噂が実しやかに流れていたが、立ち消えてしまった。南の島 ではこの手の噂はいつものことだ。
パウパウ閉鎖で解雇された元従業員(我々はパウパウ族と呼んでいる)たちが、今でもマリアナ界隈の第一線でたくさん働いている。パウパウでの教育が いかにしっかりしていたか、という証しだ。サイパンの空港やレストランやホテル、 それにグアム空港でも働いている。10年経った今でも、思わぬ所で思わぬ出会いがあり、驚くことがある。恐るべし、パウパウ族である。
我々のようにパウパウホテルを知っているものにとっては、ロタと言えば、未だにパウパウ時代を思い出してしまうくらい、ロタ島の古き良き時代であった。