イベント報告
「テニアン島との出会い」
(ターコイズブルー・トライアスロン誕生秘話)
■上空から

1994年に北マリアナ諸島(以降、マリアナと称す)の ロタ島で 「ロタブルー・トライアスロン大会」を立ち上げました。 その関係で、その後、毎年サイパン島経由でロタ島を訪れていました。

その際、PIA(その当時、運行していた現地ローカル航空)でサイパン空港をロタへ向けて飛び立った直後にいつもテニアン島を 眼下に見ていました。

なぜなら、サイパンとテニアンは僅か5qしか離れていないため、テニアン島上空では高度が まだ十分に上がっていません。だから、島の様子が細部まではっきりと見て取れます。

1997年頃からテニアン島唯一の村サンホセ村に大きな工事現場の様子が、上空から見て取れました。当初は、何を造っているのだろう と云う程度でした。

その後、1998年、上空からホテルが完成した様子が見て取れ、現地のニュースでも5つ星クラスの 「テニアン・ダイナスティ・ホテル&カジノ(香港資本)」がオープンしたと大々的に報道されていました。

■1999年、何となく訪問

そして、1999年4月、ロタブルートライアスロン大会(当時は4月開催でした)を終えた帰りにメンバー数人でテニアン島へ 立ち寄ってみました。別にこれと云った目的があった訳ではありません。ただ何となくです。

最初の印象は、何と言っても海の色です。トルコ石(ターコイズブルー)色した透明度の高い海。それに沖に大きなサンゴ礁があるいうこともあり、 穏やかな海で泳ぎやすい。特に、早朝は鏡のようでした。

ロタブルーの海を知っている我々をしても、「何でこんな色がでるの?!」と 驚きました。ロタとはタイプの違う素晴らしい海です。他の島々では見たこともない色です。

それにタガビートやタチョンガビーチの海岸線にはゴミひとつなく、清潔感を感じさせる島でした。どこの島でも人の 集まるビーチには何かしらのゴミが落ちているモノです。素朴な疑問が生じました。

ところが、翌朝ビーチへ行ってみて、その疑問が解決しました。土曜日(休日)だと云うのにTシャツとGパン姿の若者数名が無心に 海岸線のゴミ拾いをやっていました。それにしても、この若者は何物?と思い、尋ねてみると、人懐っこい若者たちで、 ガバメント(テニアン政庁)のスタッフと云う。役所の仕事としてやっていると云う。感心、感心!

この1件でテニアン島民の気質が掴めたような気がしました。彼らと話していて、「もしかして、お宝発見では?」と感じ、 この島に興味が湧いてきました。南の島の魅力は海が綺麗なことに加えて、治安がよく、島民がフレンドリーであること。

すなわち、 居心地が良いことです。この3つが揃っていないと魅力は半減です。海が綺麗だけでは、単にそれだけのものです。

■トライアスロン大会立ち上げに向けて

ターコイズブルーの海、フレンドリーな島民、清潔な島・・・何もせず、このまま通り過ぎてしまうには勿体ない島。それに、 タイミングよく 大型ホテルもできたことだし。こうなったら「やるしかないな」と思いました。

トライアスロンを通して、この島を知らない 多くの日本人に紹介しようと。そして、驚かせてやろうと。

そこで、テニアン政庁へ話を持って行く前に、レンタカーで島を一回りし、バイクコースに使える舗装路があるかどうかをチェック しました。その当時、現在バイクコースに使っている島南部の舗装路はスーサイドクリフまで全てダート(未舗装)でした。

そこで、島の北部一帯の道路を使うことにして、ハゴイ空軍基地跡地を含め、島一周の40qを考えました。ちょっとした問題は、 舗装路が傷んで、直径10〜30pで深さ10pほどの穴ぼこが100カ所ほど開いていることでした。

普通なら残念するところでしょうが、 すでに 「やる時はやるチャモロ人」の気質を知っていましたので、 これらの修復はさほど難しくないと考えました。

バイクに使う島北部の道は、優に10qを超える、まっすぐな道がうねりながら緑の絨毯(ジャングル)を切り裂いて延びています。 その様は、小さな南の島の風景とは思えません。まるで、どこか、大陸を貫いて走っているような感覚に陥ってしまいます。 誰もがそう言います。不思議な島です。

■平和の尊さ

ハゴイ空軍基地とは、全長約2qという 当時では世界最長の滑走路を持つ空軍基地で、太平洋戦争終戦末期に米軍のB29爆撃機が広島と長崎へ向け、原爆を搭載して飛び立ったことで、世界的に 有名な空軍基地です。

しかし、ほとんどの日本人はこのことを知っていません。マスコミも伝えません。いつも不思議に思っています。

終戦から半世紀以上が経過して、日本人と地元チャモロ人、それにアメリカ人が、かつてB29爆撃機が飛び立った滑走路を共に自転車で走り、 皆さんに平和の尊さを感じてもらいたいと考えました。しかし、ここを使うには、米軍の許可が必要です。なぜなら、未だに米軍の管理地 だからです。

我々は、今でも戦争の爪痕の残るマリアナを訪問する度に、 平和の尊さを実感しています。「平和あってのスポーツ」ですから。

その時のテニアン滞在は週末の2泊を予定していましたので、メイヤーズ・オフィス(市役所)を訪れる時間はなく、帰国後に ファックスで連絡を取ることにしました。その当時、まだパソコンやメールは誰もが利用しているという時代ではありませんでした。

■テニアンへのA4レター

帰国後、記憶の鮮明な内にテニアン島メイヤー(市長)のボーハ へファックス(レター)を送りました。貧弱な英語力を駆使し、 A4サイズ1枚に、全く面識のない相手を納得させるだけの文章を簡潔に書くのはちょっとした集中力の要る作業です。

相手方の メイヤーにしても、見ず知らずの日本人から「あなたの島でトライアスロン大会をやりたいのだが、どうだ?」と 云うファックスが突然届くのだから、驚くだろうし、心に響く文面でなければ、即、ゴミ箱行きです。

今日(2013年)まで南の島々(ロタ、テニアン、サイパン、グアム、パラオ)で多くに大会をやってきましたが、我々KFCの方から 開催を望んで持ち掛けたのはロタ島(1994年)と、このテニアン島(2000年)の2島だけです。その他は、ロタ大会やテニアン大会に 参加して、感動してくれた選手が帰島し、その後に彼らから依頼があって係わっているという次第です。

テニアン・メイヤーからの返事は、予想通り、OKと云うことでした。それを受けて、先ず、開催時期を決めました。 日本の寒い時期が良いと思い、 翌2000年1月22日(土)に開催日を設定しました。それから逆算して準備を進めていきます。大会名称はトルコ石色した海から 「ターコイズブルー・トライアスロン大会」としました。

■2度目の訪問

翌月、テニアンを訪問しました。2度目の訪問です。メイヤーのボーハは デカい体をしていますが、スポーツに理解があり、 テニアンにもスポーツエベントが必要と考えている人物でした。

KFCの噂も聞いており、そのため、非常に積極的でした。何と、 ポケットマネーで賞金まで出すと言ってくれました。まだ、この頃は景気がそこそこ良かったのです。

そこで、我々の窓口になる人物(現地側の大会事務局長でチェアマンと呼ぶ)を任命してもらいました。アメリが帰りのフィリップ という若者でした。メイヤーは彼がアメリカ暮らしでトライアスロンなどいろんなスポーツを見聞していると思ったからでしょう。

フィリップには我々がやろうとしているトライアスロンのプランを大雑把に説明し、一緒に車で予定しているコースを見て回りました。 そして、バイクコースに開いている穴を全部修復しておくように頼んでおきました。返事は予想通り「No problem!」でした。

一方、ランコースは島北部の道で、現在と同じです。現在は舗装されていますが、当時はダートでした。でも、固く締まっており、 ランには何の問題もありませんでした。ところが、この辺りはファーム(農場)が多く、番犬として買われている犬が放し飼いにされ ていたので、レース前日からすべての犬をロープに括っておくように頼みました。どこの島の大会でも、犬のコントロールは重要な ポイントと考えています。

テニアン政庁には、昔からドッグ・コントロール(野犬を捕獲する部署)と云うセクションがあって、彼らの働きで、今ではテニアンに 野犬は皆無と云うことです。

■2000年、第1回大会、出足上々

テニアンと云う無名の島での第1回大会と云うのに、日本から約40人ものトライアスリートが参加申込をしてくれました。 当時のエリート選手の宮塚英也、白戸太朗、松山アヤト、マイケル・ツリーズ、それに スチューアート・スミス等々そうそうたる 面々です。そのほとんどがロタ大会の経験者です。

また、これが宮塚さんとテニアンとの出会いで、彼はテニアンをたいそう気に入り、その後、毎年参加してくれています。 今では、選手と云うよりも、頼りになるスタッフみたいなもんです。

KFCロタ支部からはジョー・サントスルディ・サントスエド・バルシナスと云う3人の若手?が 参加してきました。その他、サイパン、グアム、オーストラリア、それに地元テニアンの参加者を含むと総勢90名の大会になりました。 サクラを参加させたロタ大会の第1回目と比べたら2倍以上の数字です。

大会2日前(木)にサイパンからのフェリー(船)で選手の皆さんが島に到着しました。

その当時、サイパン〜テニアン間を200人乗りのフェリーが 毎日数回運行しており、ツーリストも島民たちも、ほとんどそれを利用していました。飛行機はフリーダム航空所有のセスナ機が一日に 数往復飛んでいるだけで、荷物は運べないし、団体旅行には利用できる代物ではありませんでした。

だから、大会に参加してくれた 日本人選手も、外国人選手も皆フェリーを利用していました。もちろん、バイクも問題なく積めます。

但し、その後、資金難で2010年から フェリーは運航中止になり、現在ではすべて、飛行機での移動となっています。

■嫌〜な感じ・・の風

準備の方も順調に進んでいました。ところが悪く、大会日前日の午後辺りから風が出て来て、トロピカルストームがやってきました。

トロピカルストームとは、台風とは違って、ちょっとした低気圧のことです。やや強い風を伴っただけのもので、1〜2日で消えてしまう ものです。「ちょっと風が強いなあ」と感じる程度で、島民たちの日常生活は変わりません。熱帯では、乾季や雨季には関係なく、 多々発生するもので、日常的なものです。

嫌〜な感じはありましたが、トロピカルストームくらいでは、コースの変更は考えられません。その後、大変なことになるとも 知らずに・・・。

■何っ! 不発弾? 埋めろ!

その夕方、ホテルのプールサイドで競技説明会をやっている途中に、フィリップが血相を変えて駆けこんできました。でも、 日本人選手に、その慌て振りを悟られないように気を使いながらも、あたふた振りが見て取れます。

「どうした?」と尋ねたら「今しがたバイクコースの傍で不発弾が見つかった!」と。太平洋戦争時の不発弾で、おそらく 米軍のものだろう。その時はすでに夕方の6時過ぎだったので、今からのコース変更は難しいと感じました。

それで「埋めろ。 明日の夕方に見つかったことにすればいい。爆発しないから、今日はそのままにして、土の中に埋めておけばよい。」と云うと、 「それはできない。マリアナの法律で、そんなことはできないことになっている。」とおろおろ。

今日まで半世紀もの間、 土中に眠っていたものが、なぜよりによって、この日の、この時間帯に・・・・?! 後になって思えば、この時点からが不幸の始まりでした。

で、急きょ、その説明会の場でバイクコースの変更を発表しました。そして、競技説明会が終わるや否や、フリップの車に同乗して、 今しがた変更したコースのチェックに出かけました。午後7時を過ぎていたので、あたりは真っ暗で、車のライトだけが頼りでした。

距離は40qと変わりませんが、路面状況が心配でした。通ったことがあったので、大体の路面状況は分かっていました。でも、 傷んだ部分が見つかれば、翌朝のバイク到着時までに補修をしておかないとなりません。幸い、路面はそれほど悪くはありませんでした。

■Brother!

午後9時頃、コースチェックが終わり、ホテルに戻って来ると、何と、ロビーにロタ観光局長の トミー・カルボが立っており、「ブラザー!」 と微笑みながら近づいて来るではありませんか!

そして、「大西さんの手伝いに来た。」と言いながら手を差し伸べてきました。 有難いことです。わざわざロタ島から来てくれたのです。その気持ちが嬉しい。

マリアナ界隈で、他人に対して使う「ブラザー」とは、「フレンド」よりプライオリティが高く、強い信頼関係がある 特別の人と云う意味を表しています。通常、むやみやたらには使うことはしません。

まさしくロタブルー・トライアスロン開催を通じて、構築された大切な友情です。

■まさか! 出ばな、くじかれる・・

翌朝、4時頃に海を見に行くと、風は治まっていましたが、砂浜に打ち寄せる波は高い。南の島では強風が止んでも、 その影響で、その後しばらくは高波が続くと云う。

未だ、周囲は真っ暗闇で、沖の様子や前日にセットしたブイは見えません。

当初、スタート地点に予定していたタガ・ビーチは砂浜が 小さく、大波に覆われて使えない状態。それで、急きょ、近くにある砂浜の広いタチョンガ・ビーチへスタート地点を移すことにしました。 それに伴ってコースも多少変更し、距離も500m短縮し、1qとしました。

闇の中、横を見ると、いつの間にかトミーが立って沖を眺めていました。そして、ブイが遠くに流れてしまっていると云う。 闇の中を指して、あそこに赤いブイ、向こうに黄色いブイが漂っていると言う。そんなこと言われても、我々日本人には全く見えない。 まだ完全な闇の世界です。

これが視力5.0ほどもある「チャモロ・アイ(Chamorro Eye)」と云うやつで、 海の民チャモロ人のほとんどが持つ超能力です。 正確に測ったのかどうかは知りませんが、彼らの視力は、5.0とも6.0とも言われています。

大西にそのブイの影がかすかに 見え出したのが、トミーが闇の向こうを指した1時間以上も後のことでした。

テニアン警察の海部門(海難救助部門)がボートで流れたブイを取りに行き、スタート1時間前にはタチョンガビーチ沖にセットし 直してくれました。

また、選手として参加していたスチュアートも大活躍で、タチョンガ・ビーチからサンゴ礁を避け、 大勢が安全に泳ぎだせるルートを短時間で確保してくれました。因みに、彼は我々KFCが最も信頼をおいている白人です。

午前6時頃、スイム会場へやってきた選手の皆さんが状況を察し、緊張と不安とでざわざわしています。

こういう状況でのコース変更の場合、早くからの情報の小出しは選手だけでなく、スタッフやボランティアをも混乱させるものです。 先ず、頭の中で、方向性を固めて、シンプルにし、「場」の頃合いを見計らって、一気呵成に発表するのがコツです。

大部分の選手が会場に集まって、大雑把な状況が把握できた6時半頃に、皆を一カ所に集め、状況の変化とコースの変更を手短に 発表しました。時間にしたら、5分間位です。

■仕切りなおして、今度こそスタート!

出ばなはくじかれましたが、仕切りなおして、混乱もなく、オンタイムの午前7時に、選手の皆さん、タチョンガビーチを一斉にスタートして行きました。 波打ち際には大波が打ち寄せています。しかし、沖はうねりがあるものの、泳ぐのにはさほど問題はありません。

皆、 無事にスイムアップし、バイクで島北部のハゴイ空軍基地跡地を目指して勢いよく走って行きました。ランは現在と同じく、 島北部の高台を折り返す10qです。

想定外の不発弾事件、突然のスイムコース変更等々、ハプニングはありましたが、皆さん怪我もなく無事にゴールされました。 この瞬間にテニアンにもトライアスロン大会が誕生したことになります。

ゴール直後、白戸選手がテニアンの感想ををワンフレーズで「ミステリアス・アイランド」と見事に表現しました。言い得て妙。 さすが、弁の立つタロウです。

レース後、意に反して、滑走路のバイクコースは不評でした。グアムの米軍からわざわざ使用許可まで取ったのに・・。 ハゴイ空軍基地の滑走路の路面が荒いとのです。まあ、半世紀も経っていますから仕方りません。 そこを走ることに価値があると 思っていましたが、選手の何人かは、そうではなかったようです。がっかりです。

翌年からは、余計なことは考えず、 路面の良好な現在のバイクコースに変更しました。

■自分で探せ!

夕方6時のアワードパーティまでの間、選手の皆さんはリラックスです。でも、我々は、記録の集計作業をして、結果表を作り、 それに基づいて、一人ひとりに完走証を作ったり、賞金や賞品をセットしなくてはなりません。アワードパーティまでは部屋に籠り、 孤独な戦いです。

ホテルのレストラン・テラスを借りての表彰式も無事に終わり、部屋に帰って休んでいると、優勝したマイケルが血相を変えて 飛び込んできました。表彰式でもらった「賞金が無い!どこかで落としたかもしれない!」と、「そんなもの、お前が悪い、自分で探せ!」と云ったものの、 可哀想なので、一緒に探してやることにしました。

それで、まだ後片付けがされていない表彰式会場へ一緒探しに行きました。すると、フロアーの真ん中に賞金封筒(確か3000ドル入り) が裏向きに落ちているではないですか。もし、封筒が表向きに落ちていたら、きっと誰かに拾われていただろう。人騒がせなマイケル。 一件落着。

■テニアン大会、最大の危機

翌朝、レストランでゆっくり朝食を食べていました。そこへホテルスタッフが近づいて来て、「サイパン島付近の波が高く、 フェリーが止まっています。」と。えっ、と一瞬、時が止まりました。これは一大事です。一難去って、また一難・・

朝食時のリラックスした気持ちは消え、降って湧いたような一大事に対して、何とかせねばと、すでに気持ちは戦闘モードに スイッチオンです。こんなにも平和で、フレンドリーな島の印象を悪くすることは避けたいと思い、何としても、40人ほどの日本人選手 を国際線の出発に間に合うようにサイパン空港へ搬送しよう、と思いました。

この年はJTBとグッドウィルツアーがそれぞれ独自の参加ツアーを組んで来ていました。因みに、JTBの添乗員は滝川さんで、 現パワースポーツの社長。 グッドウィルツアーは社長の武藤さんが添乗員としてやって来ていました。

しかし、彼ら2人とも妙案がないと云う。原因は自然災害(天候)だし、誰にも責任は生じません。それに、旅行社にはそれぞれに系列や規則 と云うものがあって、その中でしか動きが取れない組織です。だから別個の旅行社同士が協力して事に当たることはほとんどありません。

そこで究極の手を使うことにしました。できるかどうかは、やってみないと分かりません。旅行業界の部外者だからこそ、 思い付く掟破り手段です。

その方法とは、どこかで空いている(時間待ちしている)機材(飛行機)を調達し、それで選手とバイクをサイパンまで運ぼう と云うものです。その機材で国際線が発つ午後3時頃まで運び切れば、何とかなると考えていました。

それがダメならアウト。 皆さん、延泊と云うことになります。

■危機回避へ

現地のKFCネットワークを使って、先ず、PIAの友人(日本人マネージャー)に連絡し、30人乗り機材を1機テニアン空港に持って 来てほしい、と交渉しました。もちろん、窮状は伝えました。その機材は、通常、主にサイパン〜ロタ〜グアムを運航している機材で、 テニアンへは就航していません。だから、可能性は極めて低いものでしたが、ゼロではありません。

ところが返事は「飛ばしましょう!」でした。諦めずに、何でもやってみるものです。

昼前にその機材がテニアン空港へ飛んで来ました。それに名古屋へ帰る人を優先して乗せることにしました。 なぜなら名古屋便の国際線が東京便や大阪便よりもサイパンからの出発時間が早いからです。

そして、その便にJTBの滝川さんも 乗ってもらい、サイパン空港で選手と荷物の受け取りを担当してもらことにしました。天下のJTBなら国際線の出発を 多少待たせることができるのではないか、と云う淡い期待もありました。

一方、武藤さんはテニアン空港で送り出しを担当してもらいました。この場は、緊急事態として、互いの旅行社の枠を超え、 双方のお客さんを一つのグループとし、協力して、ことに当たってもらいました。

最初の便は20名ほどの選手とバイクを載せて昼過ぎにテニアン空港を無事に飛び立ちました。サイパン空港までの飛行時間は 10分ほどです。そこで、皆を降ろして、テニアン空港へ引き返して来ます。そして、もう一度、残りの選手とバイクを積んで サイパンへ飛んで行くのです。

飛行機は、電車やバスと違って、搭乗手続きに時間がかかります。それため、選手の皆さんはテニアン空港に早くから出向き、 3時間ほど待ってもらう必要があります。その当時、テニアン空港にはレストラン等々はありませんでした。

それで、ダイナスティ・ホテルは、選手の皆さんは腹が減るだろうと考え、機転を利かし、選手の皆さんの弁当を作り、 空港まで届けてくれました。ナイス・サポートです。天候の所為とは分かっていても、人間、腹が減ると意味もなく 機嫌が悪くなるものです。

但し、翌日のチェックアウトの際、皆さんの弁当代はしっかり請求されました。しかし、おカネには代えがたい何かを感じていました。 感謝です。

結局、2往復して、すべての選手とバイクを何とか無事に送り出すことができました。その後、皆さん無事に国際線に乗り、 帰国された、と連絡が入りました。今度こそ、本当にやれやれです。もうこれ以上、何も起きないことを願わずには いられませんでした。

その他の外国人選手は延泊して、翌日、海のコンディションが回復してからフェリーで帰っていきました。原因が天候だから どうしようもありません。これが普通の対応ですから、不平を言う人はいませんでした。

■自分の選手は、自分で護る

外国でこんな乱暴なことをするトライアスロンクラブはKFCだけだと思います。その当時から、南の島で大会を開催するに当たって、 ひとつの信念がありました。自分たちの大会に参加してくれた選手の身に、どんな災難が降りかかっても、自分たちが護る、 という強い信念です。

日本国内だと、そんな必要はないのですが、勝手の分からない外国で大会を開催するには、 それは必要不可欠な要素と考えています。

「南の島の仲間たち」はそのために構築したネットワークみたいなものです。例え、平和な南の島と云えども、 どんな災いが降りかかるかもしれません。その時に素早く対応するには、選手と同じホテルに泊まり、それぞれの選手の動き (滞在ホテルや帰国便)を把握しておく必要があります。そのためにはオフィシャル・ツアーが必須となります。

過去、南の島で最も多いアクシデントは、脱水症と怪我です。通常の観光旅行と違ってスポーツイベントの場合、 脱水症と怪我は付き物です。

島(病院)によっては、外国人(日本人)の処置を後回しにすることがあります。また、 意識がもうろうとしている選手に対し「本人か、親族かが同意書にサインしなければ、処置でいない」などと云うおかしな規則を 強要する島(病院)もあります。

特に脱水症は緊急を要するシリアスなケースなので、四の五の言わず、早急に処置(点滴)するように 医者に強く迫ることも時にはあります。

現地の医者も日本人の仕草や表情、それに言葉が理解できず、処置室で困っていることが多々あります。そんな時は、厚かましく 処置室に入って、 アドバイスしたりします。

また、場合によっては、ツアー会社や「南の島の仲間たち」ネットワークを駆使して、 ヘリで他島にある大きな病院へ搬送したりもします。

南の島の大会では、暑さで、大会毎に、少なくとも1人は脱水症に陥る選手が出ると云っても過言ではありません。しかし、 幸いなことに、過去の脱水症患者や怪我人は100%復活させてきました。KFCの大会は「安全安心」と評価されている所以は、 このへんにあると思っています。

    

とにかく、選手を護るためには「手段を選ばず、何でもする。」 と肝に銘じています。時には声を荒げることもあります。各島々で、大西はキレやすいと思われているのは、大きな間違いで、 普段は穏やかです。 【脱水症対策はこちら】

現在、安近短の南の島々と云えども、外国で10年20年と継続してスポーツイベントを運営(主催)しているのは、日本広しと云えども KFCだけです。資金力のない弱小クラブのKFCが、こんなに長く継続できているのは、選手の安全を第一とし、いざと云う時には 「自分の大会の選手は、自分が護る。」という信念があり、それを実践してきたからだと思っています。

■平穏な2001年、OWS部門追加

翌2001年の第2回大会からオーシャンスイム部門も設けました。なぜなら、オーシャンスイマーにもテニアンのターコイズブルーを 知って欲しかったからです。

そして、この年、初めて日本のトライアスロン雑誌「トライアスロンJAPAN」(現在は廃刊)の取材が 入りました。この時、取材に来たのが、当時の新入社員だった村山(現在、トライアスロン雑誌 「LUMINA」の編集長)さんでした。 因みに、カメラマンは張本さん。

そして、その10年後の2010年大会に、その後に「LUMINA]を創刊させることになるシーオス(株)社長の松島さんが参加されました。 創刊の切っ掛けは宮塚テニアン・キャンプを受講され、トライアスロン界の重鎮である宮塚さんと知り合いになられたことです。

彼のアドバイスを得て、松島さんの持っていた熱い思いが具現化し、「LUMINA」が誕生したというストーリーです。 テニアン大会が取り持った不思議な縁のひとつです。

また、今では世界的に有名なチャンネルスイマーとなっている藤田美幸 さんが参加されました。彼女は、これまでに、数えきれないほど、 英仏ドーバー海峡単独横断永や津軽海峡単独横断泳を成功させています。その彼女の初めての海スイムが、この年のテニアン大会でした。

■不幸なハプニング、2002年

2002年の第3回大会、この年もたいへんなハプニングがありました。何と、成田発の国際線の出発が十数時間も遅れたのです。

そのため、参加者の皆さんがサイパンからフェリーでテニアンに到着されたのは、スタート時間の4時間ほど前の早朝3時頃でした。 その遅延情報は前もってツアー会社から入っていたので、我々も寝ずに待機して、ホテルの玄関で出迎えました。

ホテルに到着した選手の皆さんの顔は疲労の所為で、暗い。我々に怒りをぶつける選手もいました。そして、スタート時間を遅らせて 欲しいという人もいました。

皆さんの気持ちは分かりますが、大勢の人が係る大掛かりなイベントは、一旦準備が完了してしまうと、 中止以外のスケジュール変更は混乱が生じ、どんな危険が生じるかわかりません。

また、スタート時間の大きな変更は、すべての準備をご和算にしてしまいます。それに、大阪や名古屋、外国人選手は すでに前日からから到着してスタンバイ状態です。主催者の立場では、やるしかありません。

この時のツアー旅行社はJTBで、不幸な添乗員は 我部(現エクストレモの社長)くんでした。移動中、選手の皆さんはおそらく 我部くんに怒りをぶつけていたのだろうと思います。我部くんも暗い。原因は整備不良の航空会社にあるのに・・・可哀想な我部くん。

■2003年、レーモンとの出会い

2003年、この年から大会のチェアマンが役所の上級職員だったレーモン・デラクルズ (現テニアン市長)に代わりました。

彼は、かつて、我々がテニアンで出会った最も優秀な男です。口は悪いですが、頭の回転が速い。馬が合い、すぐに仲良くなりました。 なぜか、いつもカーボーイハットを被っており、テニアンではちょっとお洒落な男で通っています。

また、ポーカー好きで、かつてダイナスティ・ホテルのカジノにあるポーカーマシンで1000万円余りをゲットしたことがあるそうで、 ひそひそと興奮気味に話してくれました。強運の持ち主です。

2004年、レーモンと一緒に、悪ガキのような悪さもやりました。USコーストガード(日本でいう海上保安庁)の目を盗んで、 スイムコースに、半永久に使えるようにとフックの付いた1m四方のセメントの塊を10個ほど沈めたのです。許可なく、 海に大きな人工物を沈めるのは航路妨害等々で違法の様です。

しかし、これごときでは実害はありません。レーモンはテニアンの ためだからやろうと言いました。もちろん、大西に異存などあるはずがありません。

その日にコーストガードが来ないことを確認し、それらをクレーン付き車両運搬船でスイムコースへ運び、クレーンで吊り上げ、 海面に落としました。まるで魚雷が爆発したような音がして、水柱が数mも上がります。船が大きく揺れ、大迫力です。

そして、 グアムからコーストガードの船が巡回に来たら港へ戻って知らん顔。いなくなったら、再び海に出て、作業を開始です。そのレーモンが、 今や、メイヤー(市長)です。それも、頭の良さと行動力で、かつてないほど、島民の支持率が高いメイヤーです。 因みに、10年経った現在もそのアンカー(塊)を使っています。

そして、2010年5月26日にテニアン・メイヤーとして、日本を訪れました。当時の総理であった鳩山の「国外、少なくとも県外」という 無知発言から沖縄の普天間問題がこじれにこじれ、沖縄の米軍基地反対運動が最高潮に達していた時でした。

この機に乗じて、機を見るに敏なレーモンは当時の民主党政権の一員だった社民党党首の福島瑞穂を訪問し、テニアンに沖縄の 米軍基地の一部を引き受けると、直接伝えに来たのです。レーモンは基地の経済効果をよく知っているからです。そして、 このシーンはNHKニュースで放映されました。

しかし、なぜ、その相手が、世間(国際情勢)知らず福島オバサンなの? 因みに、 翌月(6月)、レーモンに会った時、社民党は良い子の集まり、会うのは時間の無駄だとアドバイスをしておきました。そして、 決定権は米国政府にあるとも話しておきました。

その後、グアムの米軍高官との直接交渉が進み、基地の誘致はありませんが、米海兵隊(USマリーン)や 自衛隊(ジャパニーズ・アーミー) の演習の場としてテニアン北部の ハゴイ空軍基地跡地が使われるようになりました。それによって、道路や港などへの投資を勝ち取っています。 米国政府経由で日本のカネも入っています。

■2006年の悪夢

2006年から開催日を、これまでの2月から海コンディションが最も安定する6月に変更しました。この当時、サイパン〜テニアン間の 移動はフェリーが主流で、海(外洋)が最も安定する6月に開催日を変更しました。参加者の船酔い対策です。

しかし、 現在は全員が飛行機移動なので、船酔い対策に拘る必要はなくなりました。

また、この年、タレントのヒロミさんが参加されました。これがヒロミさんのトライアスロンレースのデビュー戦です。 本名でこっそり申し込まれたので、直前まで、ヒロミさんということに気づきませんでした。今ではトライアスリート兼実業家として 大活躍されています。

さらに、トライアスロンボーイズのリーダーである井上さんも参加されています。

しかし、何と云っても、最もインパクトがあったのは「米軍戦闘ヘリとの遭遇」事件です。 こんな不幸な体験をした日本人は 他にいないと思います。

■2011年「えっ、成田へ戻れない!?」

2011年3月11日、突然、日本は未曽有の災害に襲われ、その恐怖のあまり、時が止まった状態にありました。 日本全国、あらゆるイベントに対し、 自粛ムードが蔓延し、極めて異常な集団心理に陥っていました。

しかし、そのムードに反し、非難ごうごうの中、4月開催の 「第13回Lafuma青梅高水山トレイルラン」は実施に踏み切りました。 これが震災後、全国初の大規模イベント(参加人数2000人規模)になりました。そして、これを機に、全国でスポーツイベントが 堰を切ったように開催されるようになりました。

それくらいですから、当然、6月のテニアン大会も開催の方向で準備を進めていました。

そんな折、5月頃に航空会社から選手の皆さん全員の帰国は関西空港になる可能性が強いと連絡が入りました。成田から出発して、 帰国が大阪と云うのは、かなりしんどいものがあります。外国の航空会社であるデルタ航空がフクシマの放射能漏れを恐れての対策です。

残念ですが、それを受けて、急きょ募集を中止にすることにしました。いちトライアスロンクラブがどうこうできる問題ではありません。

すぐにレーモンにその旨をメールしました。直ちに、日本のためにテニアンができることがあれば、何でもする用意がある、 と返信メールしてきました。自分の島が極度の財政難にある中、有難い申し出です。

■一石二鳥のイベントへ

来年2014年からテニアン最大の食の祭り「ホットペッパー・フェスティバル」に合わせ、ターコイズブルー・トライアスロン&スイム大会 の2月開催を予定しています。来年は2月15日(土)となります。

飛行機移動になり、船酔いの心配がなくなった今、やはり南の島の大会は日本の寒い冬季に開催してこそ 価値があるというものです。

また、これによって親日派のテニアン島民と直に触れ合ってもらうこともできます。 それに美味しい唐辛子料理を堪能することもでき、一石二鳥です。

この開催日変更は、日本の選手の皆さんにテニアン自慢の美味しい料理を食べて欲しいというレーモン市長の要望だけでなく、 テニアン警察の希望でもあります。

なぜ、警察もかと云いますと、警察的には、KFCイベントのバックアップが一番楽しいと言います。だから、島民が誇るフェスティバルに合わせて 開催してほしいと云うことです。

オフレコですが、そうすれば、現在行われているこの日の他イベントの開催は全部許可しないそうです。因みに、 警察官たちとは長年苦労を共にしてきた仲、 強い信頼関係が出来上がっています。今では、一言えば、十やってくれます。

今後も、紆余曲折はあると思いますが、気持ちのあるテニアン島民とはいつまでも付き合っていきたいと願っています。

2013/07/22 KFC記